odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

法月綸太郎「ふたたび赤い悪夢」(講談社)-1 他人を助けたいと思うが、その行為をすると他人を傷つけてしまう(と思い込んでいる)人たちの物語。セリグマン教授の代わりに柄谷行人の本が探偵を慰める。

 「頼子のために」の事件から半年。最後の決断のあと、探偵は深刻な懐疑にとらわれる。仕事はできず、事件に関与することもできない。まあ、自傷が高じて、社会性を失っているとでもいうか。
 深夜、「雪密室」の事件の関係者であり、現在はアイドル活動中の畠中有理奈から電話がかかる。ラジオ局で男に襲われ、刺されたはずなのに自分は無傷。行先がないので相談したい。というのは、過去の事件で自分の両親が殺人者であり、その血が自分に流れていることを恐れているので(生物学や遺伝学ではありえず、本人の思い込みや妄想)。なるほど、有理奈のセーターには人血がついている。とりあえず法水の自宅マンションに保護した後、情報収集にでると、ラジオ局のそばの公園で男が殺されていた。有理奈の証言とあわせると、その男が有理奈を襲った男と思われる。男はラジオ局をでるのを目撃されている。となると、局内で襲撃された後、公園で事切れたと見え、有理奈の証言と一致する。
 有理奈は零細プロダクションに所属しているが、大手プロに疎まれ、妨害を受けていた。ことに著名な映画監督の新作に主演が内定しているが、大手プロは別のアイドルに代えることを策謀している。出版社にも手をまわし、上の事件とからめて、有理奈が殺人者の娘であるというスキャンダル記事をだそうとしていた。そのゲラ記事を読んだ有理奈は浴室で自殺を図る。
 そこにいたって、法月親子は有理奈の無実を信じ、警察の捜査とは別に調査を開始。当然、警察も二人をうさん臭く思い、情報は得られず、有理奈有罪の間接的な証拠が次々と上がってくる。

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 ここでタイトル「悪夢」の意味が浮かび上がり、事件の関係者がそれぞれ過去に経験した過ちを後悔し、現在の行動を縛ることになっているからだ。すなわち、綸太郎は「頼子のために」で私的制裁に関与したことを、有理奈は17年前の実父と双子の兄の殺害の理由を、有理奈の義父(父の弟で、17年前の事件を担当した刑事)は同じ事件に居合わせたことを。ほかにも事件の関係者は有理奈の周囲にいて、それぞれが過去の事件を「悪夢」として認識している。過去の事件も現在の事件も、人の血が流れていることから「赤い」のである。先にいったように生物学や遺伝学ではデタラメであっても、この国の社会ではありうると思い込むような偏見が彼らを桎梏するのであり(むしろ事件を忘れない社会の側が偏見を押し付ける)、それを解くことがこの事件の関係者の問題に他ならない。となると、現在の事件はきっかけなのであり、過去の事件のほうがより重要なのである。過去の事件が陰惨であり(二つの家族の間のいさかいである、死者多数)、解決があいまいであること、関係者がかたく口を閉ざし、何があったかを語らないために、事件の周辺にいたものは想像をたくましくするしかなく、それが彼らの行動をすさませていく。表面上は問題のない家族とその係累であっても、底には負のエネルギーが蓄積されていて、さざなみ(というには現在の事件は大きく、かつ陰湿)が起きると負のエネルギーは現実の行動となって噴出する。そこにおいて愛憎、ねたみ、にくしみなどの複雑な感情があらわになる。そしてもっとも傷つけられるのは日本社会のマイノリティ(ここでは女性であり、子供)。これは「頼子のために」「一の悲劇」にも共通するところ。
(有理奈の本名「中山美和子」には個人的な思い入れがあって好ましい。でも、男の作家が10代の女性を書くと、無垢であり、巫女のようであり、予測できない奔放さをもち、繊細で傷つきやすく、媚びを売りつつ逃げだし、しかし世界の鍵のありかを隠しもっているというような属性を付け加えていて、実在の女性から遠く離れている。でもアニメやマンガのキャラクターに似ているので、受容してしまう(萌えてしまう)存在になる。俺はだんだん感情移入できなくなった。)
笠井潔の解説をチラ見したら、三作の共通性に妊娠できない母をみている。加えると、優柔不断で、初恋の相手を忘れられないロマンティックな父も共通するとみていい。この三作は1990年ごろに起きたのだが、いずれも10代の娘をもつ家族に起きているので、当時の父と母の典型を見ているように思うのだ。戦前の家父長制がなくなって、強い父がいなくなった後、父母の権威に抵抗したベビーブーマーのつくった父の像がこういうロマンティストであると思うと、ちょっと情けない)。
 他人を助けたいと思うが、その行為をすると他人を傷つけてしまう(と思い込んでいる)人たちの物語。同じ主題はフィリップ・K・ディックにもあるが(作者のお気に入り作家)、PKDほど壊れた人たちではないし、哲学や神学にいかれているわけでもない。なので、自己回復と社会性の獲得の物語は比較的健全に進む。とはいえ、作者はちょっとずるいと思うのは、他人を助けることで自分を助けるという行為を法月探偵が他人に命じるところ。ここでは有理奈の父であり、映画監督でありと、年上の父母である人たちにたいして。子供を持っていて養育の責任があるから、耐えて行けという。あるいは年少者。ここでは有理奈とその兄。彼らには過去を捨てて未来を見ろという。でも、法月自身とその同世代(20代後半の独身者)にはそのような克服と回復を要請しない。他者との関わりについて、自分(と取り巻き)にはわりと甘いのだよね。
 現在の事件も過去の事件も、物証や証言のあいまいさに起因して複雑になっているが、構成しなおすとそれほど複雑ではない(ロス・マクドナルドのほうがもっとややこしい)。でも、これまでの長編の二倍の分量になっているのは、上の主題について各人の考えや会話を克明に記録しているため。それまでの作品であれば第1部の350ページ(文庫版の場合)は端折って、第2部から始まるだろう。それでも350ページを費やすというのは力が入っている。30代初めの初読時では、その力技に圧倒された(1992年初出)が、四半世紀以上たって読み直すとそのままでは受け入れられないところがあった。
エラリー・クイーン「九尾の猫」の終わりでセリグマン教授がエラリ―に授ける英知「神はひとりであって、そのほかに神はない」の解釈があらわれる。そこでは柄谷行人「探求II」の第五章「無限と歴史」の冒頭が引用される。

「神が「無限の実体」だということは、それを超越するものがありえないこと、その外部がないことを意味する。《神はあらゆるものの内在的原因であって、超越的な原因ではない「エチカ」第一部定理一八)。神は超越的でなく内在的である。いいかえれば、神とは、自然であり世界のことである。それは「唯一の」世界である。つまり、一切がこの世界内に属するのである。それが「無限」ということの意味することだ。(柄谷行人「探求 II」講談社学術文庫P169)」

 同じ本を読んでいたが、茫洋と読んだから、このようなところでつながるとは思えなかった。とはいえ、「神が『無限の実体』だということは、それを超越するものがありえないこと、その外部がないことを意味する」というスピノザの考えになじめなくて、よくわからない。)。

2018/12/06 柄谷行人「探求 II」(講談社)-1 1989年

2018/12/04 柄谷行人「探求 II」(講談社)-2 1989年


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2019/06/18 法月綸太郎「ふたたび赤い悪夢」(講談社)-2 1992年

法月綸太郎「ふたたび赤い悪夢」(講談社)-2 躓いた名探偵は柄谷行人の本に慰められるが、探偵はその職務上〈砂漠〉にも〈他人〉にも出会えない。すぐ横にあるのに。

2019/06/20 法月綸太郎「ふたたび赤い悪夢」(講談社)-1 1992年の続き

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 ここでは探偵の役割について考えている。誤った推理で無実の人間に冤罪を押し付けることがあるのではないか、正しい推理で真犯人の私的制裁をしてもかまわないのか。事件が進展中のときに、真犯人がわかっていても、物証がないので、放置している間に別の事件を起こしたとき、探偵に道義的責任があるのではないか(事前に犯行を止める手立てをするべきだったのではないか)。まあ、そんな感じ。もちろん探偵は神に例えられたとしても、神のような無謬性はないのであって、未来の結果を予測しえないのであるから、失敗はつきものではある。それにしても失敗による被害の大きさや影響は甚大なのであって、探偵であること自身に常に懐疑的であらねばならない・・・というような理屈は延々と書き連ねることができる。こういう理屈をこねくり回していると、加害者の加害行為がどこかにいってしまうのと、犯罪にまつわる社会システムの存在を忘れるのとがあって、あまり意味はない。
 俺はロック「市民政府論」に書かれているように、上記のような個人が犯罪の摘発と被害者救済を抱えるべきではなく、専門家による集団的な対応があるべきだと思うので、こういう「後期クイーン問題」(というのだっけ。探偵小説評論界の用語はよく知らない)を問うのは意味がないと思っている。
 本書「ふたたび赤い悪夢」で、法月名探偵はセリグマン教授ではなく、文芸批評家・柄谷行人の言によって、とりあえずの復活をはたす。「探求II」をひいて、砂漠へ出よというもの。

「しかし、ここでも別の読み方が可能であろう。たとえば、モーゼ自身がカナンの地に入ることを拒んだということができないだろうか。また、モーゼがユダヤ人をエジプトから連れ出したのは、「約束の地」に導くためではなく、「砂漠」に導くためではないだろうか。このことは、いろんな角度から指摘できる。たとえば、マックス・ウェーバーの考えでは、モーゼは、ユダヤ人を、農耕定住民(奴隷であろうと主人であろうと)から、遊牧民としての在り方に戻そうとする運動を象徴している。あるいは、それを、のちにカナンの地において出現してきた預言者たちの側からみてもよい。それは、バール神――農耕神であり共同体の宗教(偶像崇拝)である――に対して、モーゼの宗教を回復するものであった。それらは、農耕定住民の共同体に反して、外部(砂漠)へと人を導く運動なのだ。ここで、砂漠とは、内と外の区別がないような交通の網目の空=間を意味する。(柄谷行人「探求 II」講談社学術文庫P285-286)」


 なるほど、名探偵が「難しいな」と口ごもるのも無理はない。そこだけを単独で読んでも、意味はほぼ不明なのだ。俺が思うには、名探偵は「探求 I」などで書かれた他者=外国人を考慮していない。双方向のコミュニケーションができない、言語を共有していない、でもそこにいる他者と出会うところが砂漠であり、内と外の区別のないような交通の網目の「空=間」なのだ。たんに「砂漠」にいってもそこで他者=外国人と出会うのでなければ、砂漠はすぐに内部しかない共同体になってしまうだろう。そのような砂漠でこそ、正義や倫理が生まれる。というような議論を柄谷がするようになったのは、もっと後になってからのこと。なので、名探偵の認識もまた1990年ころの水準にとどまる。
 とはいえ、作者はクイーンを手掛かりに正義や倫理を考えることは可能だったのだ。名探偵の躓きをそのまま描いたクイーンの「十日間の不思議」「九尾の猫」を引用するように、別のクイーンの長編を引用すればよい。でも、その長編をモチーフにした作品を作者は書いていない。すなわち、「ガラスの村」と「第八の日」。ことに前者。ニュー・イングランドの人の出入りのない山村。そこで信望の厚い老婆が殺される。容疑は、英語を喋れない東欧難民。彼がたまたま村を通過中であったので、逮捕され裁判にかけられる。人々は有罪にすることを要望し、落ち着けという判事と元軍人を糾弾する。ニュー・イングランドの村は共同体であるが、東欧難民が来る(英語を喋れない=共同体の裁判に参加できない)ことによって、村は砂漠になる。村人たちはパニックや排外主義で他者=外国人を排除することを要求する。これは手続きとしては民主主義に他ならない。民主主義を実行することが、他者=外国人を排除するショーヴィニズムになるのだ(書かれた当時のマッカーシズムがそういう民主主義)。で、それに対抗するのが強固な自由主義者。民衆、大衆の要望よりも個人の自由や権利(もちろん生命)が重要と考える人々。そこで糾弾されている東欧難民を救うために(排外主義によるジェノサイドを防ぐために)、判事と元軍人は捜査を開始する。彼らの行為は、共同体の要請によるものではなく、誰か特定の人の利益のためにでもなく、せいぜい判事という権力を使うことによって、社会(複数の共同体が交差する空間)の正義と倫理を実現するため。
 法月名探偵はこのような正義と倫理に立つことがない。砂漠や他者について考えたこともないし、出会ったこともない。そういう名探偵の苦悩は、底が浅い。苦悩も俺には表面的にみえる。なので共感できない。問題意識も共有できない。作者はクイーンの長編をモチーフにした作品が多いのだが、上にあげた「ガラスの村」「第八の日」はとりあげていない、はず。クイーンの長編には、金持ちの娘にエラリ―が社会奉仕を見せるシーンがあったりするのだが、法月探偵はしない。たぶん、都内で社会奉仕があっても彼の眼には入っていない。
 砂漠、他者=外国人を日本で認識するのは難しいと思うかもしれないが、さまざまなマイノリティと「交通」することで可能になる。
(ただし、安易な気持ちでマイノリティ集団とアクセスすると、集団を疲弊させたり、破壊したりすることになりうる。十分な注意とケアが必要。このまとめを参考に。)

togetter.com



 以下余談。解説で笠井潔は探偵の行った先の「砂漠」で内と外の区別のないような交通の網目の「空=間」で探偵小説は生き延びることができるかと問いかけているが、そのような場所でこそ「モルグ街の殺人」が起きて、デュパンという探偵が生まれた。とはいえ、そのあとの作では共同体内の事件になってしまったのであって(「盗まれた手紙」「お前が犯人だ」など)、砂漠で起きた犯罪を構想するのはとても困難。


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法月綸太郎「二の悲劇」(祥伝社) 自分と他人をわける「二」。「わたし」と「きみ」は分割可能なのか。

 見かけは単純だった。OLが殺され、顔を焼かれて放置される。ルームメイトの女が逃亡している。彼女を捕まえればいい。法月に相談が来た事件の概要はこんなことだった。奇妙なのは、殺された女が鍵を飲み込んでいたこと。おもちゃのような鍵を使うものは部屋にはみあたらない。そこで鍵の使い道を考える討論会を行う。
 こういう調子でサマリーを書くといつになっても終わらないので、ストーリーは端折って、判明した事実をあげる。ルームシェアをしていたのは、京都の高校を卒業した同級生。上京して二人暮らしを始めるほどの中で、どちらも雑誌編集者。殺された清原奈津美は京都に出張した際に、同級生の二宮に偶然出会う。男はルームシェアの相棒である葛見(カツミ)百合子の名を呼ぶ。なぜか名前の誤りを訂正できなかった清原はそのまま交際を重ねる。別人を名乗るという不自然さにストレスがたまる。一方、葛見は同僚の三木の子を妊娠する。三木は葛見から逃げ出し、堕胎を余儀なくされる。あまつさえ、三木が清原にいいよるのを知ってしまう。情緒不安定な葛見は突然殺意をもって、清原を惨殺する。そして行方不明になる、数日後、京都の町はずれで滑落死しているのが発見される。

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 表面上は、二人の怨恨ということで終了しそう。事件の鍵になる二宮は6年前に死んでいた。でも、法月は清原の日記の存在に固執する。そこにかかれた清原の心情(上記のような関係)がフィクションであるとは思えず、清原と葛見のそれぞれの恋愛のすれ違いではなく、二人ともうひとりの三角関係が存在すると考えたのだ。そのうえ、二人の卒業アルバムでは写真と名前が入れ替わっていて、どちらがどちらであるのかを、高校時代の出来事を知らない限り、区別するのが困難であるという事態が起きている。
 タイトル「二の悲劇」はダブル・ミーニングであり、二の示すものが複数あるということ。ひとつは清原と葛見の自他分離のできていないような関係であり、卒業アルバムの写真いれかえにより顔と名前が不一致であり二人を演じなければならないという事態を生きることである。もうひとつは、作中に挿入される「きみ」を主人公にするナラティブ。どうやら「きみ」と呼ばれるのは清原の出会って交際した男のことのようであり、しかしだれがなぜ二人称で呼びかけるのは判然としない(真相がわかると、切実な理由があるのがわかる)。
 事件の構造は短編「トゥ・オブ・アス」@しらみつぶしの時計(祥伝社文庫)に書かれているので、そちらを参照したほうがわかりやすい(二つの作品のアイデアは在学中にあったもので、短編を書いて長編になったらしい(発表順は逆)。ややこしい「トゥ・オブ・アス(私たち二人)」。これを長編のタイトルにすると、仕掛けがみえてくるようなので、「二の悲劇」にしたのは正解。ここでも仕掛けを説明するわけにはいかないので、もどかしい。秘密の日記に書いておこう。きわめて特殊な状況でなければ実現不可能な出来事が、この作品では無理なく実現している。その技術や手腕はみごと。派手なトリックがなくても、探偵小説が成り立つことを示した。
 作家は本作を書くのに二年をかけたそうだ。そうなったのは、この仕掛けを描くのに微妙な文章を書かねばならないということがある。もう一つは、複数の文体を使い分けなけらばならないこと。法水の捜査を描く三人称法月視点の文章。清原の書く感情過多の日記文。「きみ」によびかける二人称。多く出てくるのはこの3つの文体。途中、娘を亡くした老母(とはいえ50代)の繰り言があり、自立した女性のくだけた会話口調(これを「男勝りの」という比喩を使ってはならない)。こういうこれまでに書いたことのない文体を創造し、リアルであると思わせるまで練り上げるのは大変な作業であったにちがいない。(ではあっても、自立心のないような「きみ」の呼びかけを読むのは苦痛だった。ああいうのが、1990年代バブル以後のうだつのあがらない内気な独身男性の内面の典型ではあったと思う)。
 なお、ラストシーンは「頼子のために」の再現となるが、法月の決断は前作とは異なる。まあ、利害関係のない第三者であることを貫くことができたからであるし、強烈な個性で事件を構想する意思の持ち主が不在であることがその理由。
(複雑な三角関係からエラリー・クイーンの「」「三角形の第四辺」「最後の女」などを想起したが、最も近いのは作者のいう通り「心地よく秘密めいた場所」だな。)
 小さい文句。祥伝社文庫は最近の文庫にしては文字が小さく、ページ当たりの文字数が多い。もう高校生ではないので、目にやさしくなく、読みづらかった。


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