odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

デイヴィッド・リンゼイ「アルクトゥールスへの旅」(サンリオSF文庫)-4

2020/04/07 デイヴィッド・リンゼイ「アルクトゥールスへの旅」(サンリオSF文庫)-1 1920年
2020/04/06 デイヴィッド・リンゼイ「アルクトゥールスへの旅」(サンリオSF文庫)-2 1920年
2020/04/03 デイヴィッド・リンゼイ「アルクトゥールスへの旅」(サンリオSF文庫)-3 1920年

 


 コリン・ウィルソンの助けを借りて、マスカルに起きたことをまとめてみるか。ウィルソンによると、リンゼイの思想は「仏教的現生棄却」「宗教的真摯さ」「崇高な世界(の希求)」「夜と混沌」「すべての否定」「進化的ヴィジョンの欠如」だそう。この指摘はその通りと思うので、特に追加することはない(仏教的現生棄却には違和感があるが、仏教を良く知らないのでことばにできない)。

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 さて、トーマンスの世界は二元論ないし二項対立でできている。おおむね世界はクリスタルマンによって支配、統治されている。これは快楽原理に基づくもので、生の目的や生きがいは快楽にある。食が不足することはなく(したがって労働がない)、性に飢えることもなく、感情の吐露を抑制することはなく、他人の視線に怯えることもなく、現生の充溢があれば事足りる世界である。少数には他者(異種の生き物をふくむ)危害を嫌って、食を忌避する者もあるが、全惑星的な倫理ではない。それはすくなくとも当時のビクトリア朝モラルが社会に浸透しているイギリスにおいては魅力的な世界であるはず。キリスト教的な禁欲と節制はここでは高評価にはならない。
 しかし地球の生活や社会になじめないマスカルは、同じく快楽をベースにした生の地球に飽き、生をより偉大なものにしたいと考える。トーマンスに来た理由はわからないものの(クラッグの意図によるのはわかっても、その内容は不分明)、自己発見や自己変革の契機を持ちたいと思う。そしてトーマンスの森、高原、平原、湖、高原、海などをさまよい、それぞれの場所でマスカルをまっていたらしい人と会話し、冒険する。ときに激しい衝突は殺人になり、身体の改造と意識の拡大をもたらす(殺人を除いてはバニヤン天路歴程」に似ている)。その結果、彼はクリスタルマンの快楽原理を物足りなく思い、さらに彼らの弱さを嫌悪するようになる(すなわち、彼らが死んだとき、ないしマスカルが殺したとき、クリスタルマンの下卑たにたにた笑いが現れること。彼らの言葉や行動が公明であっても、クリスタルマンの傀儡で代弁者なのだ。自己が唯一の存在であり、ユニークであることを願うマスカルには耐え難い)。
 そこで、彼はクリスタルマンの対向者であるサーターの正体を知ろうとする。サーターは悪魔とされ、クラッグも同様な悪魔である。それらは快楽を否定し、偉大さに至る道は苦痛であるという。苦痛がいかに偉大さに達するかについては、さまざまな人がマスカルに説明するので、サマリーを参考に。
 とはいえ、快楽の否定、苦痛を経ての自己犠牲という階梯を登ることはきわめて困難。なぜなら最終章でナイトスポーが見たヴィジョンのように、生命粒子の行動原理がマスペルという世界創出と維持のエネルギーに対して盲目であり不満の状態にあるから。マスペルの光と合一化しようとしても抵抗にあい(たぶんクリスタルマンの存在とは無関係)、快楽の泥沼に幽閉されて、生命の火花が骨抜きになり、堕落させられているから。おそらく幽閉や堕落の現状を認識している生命粒子はなく、わずかにクラッグ、ナイトスポー、そしてサーターのみが解っている。クラッグは俺たちの方がクリスタルマンより強いとうそぶくも、彼我兵力差はいかんともしがたい、とみえる。
 まずは世界の在り方そのものが間違っているのである。生命粒子も世界の間違いの上に乗っかっているので、クリスタルマンのような欺瞞の手のひらから逃れることができない。なので、死ぬことによってその本生があらわになる。では、そこにおいて間違った世界からの脱出方法あるいは自己変革の可能性はあるかというと、「苦痛」しかないという心細い話にしかならない。苦痛のすえの自己犠牲の愛を貫徹した数名の女性(タイドミン、グリーミール、サレンボウド)も、クリスタルマンのにたにた笑いを浮かべるとなると、どこまで厳しい苦痛が必要であるのか。
(このような快楽と苦痛の相克、その克服というテーマは、ロバート・スティーブンソン「ジキル博士とハイド氏」に共通しているのかもしれない。科学時代の人スティーブンソンは薬の発明に向かい、神秘主義者リンゼイは意識の拡大と修行(ないし冒険)に向かった、といえるか。二人に共通するのは、克服や解放のモチーフがないこと、破滅か永遠の闘争という悲観的な思いになること。ここに同時代のウェルズを加えると、19世紀末のイギリス知識人は世界の在り方にペシミスティックで、人類が退廃に向かい、世界はいずれ破滅するというイメージにとらわれていたのかもしれない。サンプルが少なすぎて、断定できないけど。)
 このような世界認識と自己改造の系譜をつくろうと思えばつくれて、西洋社会に限れば、グノーシス主義があり、マイスター・エックハルトやエロイーズのような中世神秘主義者から、ドストエフスキーの小説世界に現れる鞭身派のようなキリスト教異端に、シモーヌ・ヴェイユのような女性思想家まで上げることができるだろう。作者デイヴィッド・リンゼイは彼らにたぶん近しい。ただ、このような世界認識を小説世界に描いたとなると類例を他におもいつくことができず(もしかしたら晩年のPKD?)、この浩瀚な「アルクトゥールスへの旅」を描き切ったことは賞賛に値する。
(とはいえ、このような世界認識を自分は共感、共有できないので、この小説はすごいと思うが、熱烈な支持を表明することができない。長らくサンリオSF文庫は絶版・品切れで古書価は高騰していたが、最近2013年文遊社からハードカバーで再版されたという。) 

 

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 「アルクトゥールスへの旅」の解説は、コリン・ウィルソンのほかに、荒俣宏が「別世界通信」(ちくま文庫)にも書いている。後者はこのエントリーを書く際の参考にはしなかったので、これから読み直すことにする。

 読んだ。(荒俣宏は自分で「アルクトゥルスへの旅」(国書刊行会)を訳出しているので、中村保夫訳とは人物名の表記が異なる)

「マスカルたち奇怪な三人組の冒険ははじまる。謎の相棒ナイトスポァと悪魔クラーグは、古くからサーターと呼ばれる宇宙の創造主を追いもとめていたことが、ここで読者に知らされる。(P264)」
「巨星アルクトゥルスへの旅が、究極的には「対立する二つの概念の原型」――あるいは中和体を追う精神の遍歴であることを知らされたマスカルは、そこではじめて自分に課せられた任務を実感するのだ。地球の全人類を代表して、この地球に光を投げかけているのが悪魔なのか神なのかを目撃するために選ばれたものこそ、自分だったのだと。/善と悪の対立しあう地球とアルクトゥルス。かれはそこで、地球では善と考えられていたものがアルクトゥルスでは悪となり、アルクトゥルスでは善と考えられているものが地球では悪と呼ばれていたことを発見する。(P265-266)」
「これは宇宙的幻想の進化論でもなければ、一般にいわれるような古いキリスト教遍歴譚の二十世紀化した姿でもあるまい。そうではなく、これは神秘家としてのリンゼイの捉えた、キリストを含む地上のあらゆる人間たちが繰りひろげる〈生きるための地獄図〉の、忠実な「地球照(アースシヤイン)」なのだ。(P287)」

 さすが、というしかないまとめ。これを書いたとき、荒俣宏は20代だったのだよ、驚異の若者!

 

 

1979年につくられた「A Voyage to Arcturus」の映像!

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2020/3/31 デイヴィッド・リンゼイ「憑かれた女」(サンリオSF文庫) 1922年

デイヴィッド・リンゼイ「憑かれた女」(サンリオSF文庫) 至高体験による上昇と世俗の重力による下降を繰り返す選ばれた人たち。

 サセックスの森林に囲まれたランヒル・コート館。そこにはウルフの塔の伝説があり、中世には最上階がトロール(ヨーロッパの伝承などに登場する妖精)の手で運び去られたという伝説がある。失われた部屋の階下は「イースト・ルーム」と呼ばれている。この館を買いたいという伯母を連れて許嫁といっしょにやってきた女性(画家)は、イースト・ルームに上に登る階段があるのを見つける。しかし、彼女以外には階段は見えない。階段をみることができたのは、彼女と館の所有者と心霊術師の三人だけ。彼女は階段の先で見たことを思い出そうと、館に足しげく通う。

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 1922年に書かれた小説なので、当時の上流階級を思い出さないといけない。すなわち、心情の吐露ははしたないことであり、男性とは距離を置いて機知にとんだ会話をしなければならず、女性の権利など皆無に等しいが、家事の命令をすることで間接的に家の支配ができるかもしれない。なにより恋愛の自由はまずなく、いちどフィアンセを決めたら、それ以外の男性と親しく口を交わすことはマナーに反することである。そういう時代であって、上品さを装いつつ、真情を隠すという離れ業を女性は行わなければならない。その中で、階段をみることのできた女性、イズベルは画家であり、芸術において美の追求をする「開明」的である。
 イースト・ルームの階上で見られるのは「九月の霧の中から現れたプラムの青い花のような風景(ヴィジョン)」。古代の風景ににているようであり、ほのかな匂いと寂しげな低音のメロディの聞こえる場所。なによりもそこが重要なのは、階下の世俗の場所と異なり、心情の吐露が可能であり、恋愛の自由があり、美や崇高さを語ることができること(美や崇高さはその場所にあるように思われるが、階段を上ったばかりの人はその世界に触れるだけで、探検できず、全貌はつかめない。ただ芸術的な美や崇高さが満ち溢れている世界のようである)。このような物理現実にはあり得ない場所に行くことのできる人は限られており、そのうえ行けたとしてもその場所にふさわしい意志をもたず、努力できないものは排除されてしまう。「あの世界」に長年住んでいられる人はもしかしたら伝説の人ウルフのみかもしれない。
 このような至高体験を経験したにもかかわらず、イズベルも塔の所有者ヘンリー・ジャッジも心霊術師ミセス・リーチボロウも、世界にとどまるだけの強さをもたず、いつかは階段を下りて世俗に戻らねばならない。残酷であるのは「あの世界」で美や崇高さにふれた体験は世俗に戻ると同時に記憶から失われ、忘れないように交換した指輪や手紙やハンカチーフなどが世俗の人間関係ではタブーに触れることになり、彼らに不安と疑惑をもたらし、離れることを決意しなければならないほどになる。
 それほどに人間は一方で至高体験を経たうえでの上昇を目指すものでありながら、一方で世俗や社会規範の重力から逃れられないもの。上昇のためには意志と努力(おそらくそれにともなう苦痛)が必要であるが、どのように・どのくらいの・いつまでのは開示されることはなく、どうすればよいのかは誰にもわからない。ウルフの塔をのぼる扉ないし階段が開くのは気まぐれなようであり、人間の側からはどうすることできない。
 作者のテーマはこんな感じか。物理現実や世俗を嫌い、芸術的な崇高な世界のヴィジョンにとらわれた人間のあがき(それほどどろどろしたものにならないのはイギリス上流階級の上品さのおかげ)。物語はイズベルは、ひとりで、ジャッジと、さらに心霊術師と、3回階段をのぼるだけ。最後に心霊術師が死亡した後に、館で階段を上らずにジャッジと「あの世界」で再会する。あいにくそれは喜びにはならず、イズベルとジャッジの魂の交友が破壊されることで終わる。なんともペシミスティックな物語。
 イズベルとジャッジは「あの世界」で互いに愛を感じていることを確認したにもかかわらず、キスどころか抱擁すらしない。21世紀にこの潔癖さ、冷淡さに感情移入するのはなかなか困難。好事家向けの小説。
(まあ、自分はこののんびりした展開と無個性な人物の退屈な会話が、ジョン・ディクスン・カーの幽霊屋敷ものの探偵小説冒頭部分だなと思い当たって、それなりによめました。イズベルとジャッジの隠しあった逢瀬は、それこそ「震えない男」「魔女の隠れ家」「曲った蝶番」「剣の八」「死時計」「毒のたわむれ」「囁く影」「プレーグコートの殺人」の被害者周辺にありそうな話じゃないか。)


 サンリオSF文庫には、コリン・ウィルソンによるデイヴィッド・リンゼイ論「不思議な天才」約100ページも収録。主には「アルクトゥールスへの旅」の分析。「憑かれた女」への言及はさほどないが、訳者あとがきで委細を尽くしてるので充分。上記のような至高体験と意志による自己変革がウィルソンのテーマにぴったりなので、この不遇で忘れられた作家の発掘になったのだろう。
サンリオ文庫版の「憑かれた女」は廃刊・品切れだったが、2013年文遊社により再刊。ここにはウィルソンによるリンゼイ論は収録されていない。)

 

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2020/04/07 デイヴィッド・リンゼイ「アルクトゥールスへの旅」(サンリオSF文庫)-1 1920年
2020/04/06 デイヴィッド・リンゼイ「アルクトゥールスへの旅」(サンリオSF文庫)-2 1920年
2020/04/03 デイヴィッド・リンゼイ「アルクトゥールスへの旅」(サンリオSF文庫)-3 1920年
2020/04/02 デイヴィッド・リンゼイ「アルクトゥールスへの旅」(サンリオSF文庫)-4 1920年

E・R・エディスン「ウロボロス」(創元推理文庫)-1 イギリス中世に極似した彗星の修羅国・魔女国・小悪鬼国などで起きた英雄同士の一大抗争。

 レミンガムはある夜、雨燕の誘いで、水星に行く。この世界の異人であるレミンガムは身体をなくした霊となって、英雄同士の一大抗争をことごとく見届け、重厚絢爛たる文体で地上の人々に伝えた(という設定は物語の冒頭ですぐに忘れられる)。
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 水星はイギリスの古代から中世の世界に相似しているとでもいうか。地図がないので位置関係は把握しかねるが、以下の諸王国(ランド)が友好関係と敵対関係を変えながら、長く治めている。予言や占いは未来を正確に予見し、それには抗いがたい。魔術はあれど、その技術の習得は困難かつ危険であり、生涯になんども使えるものではない。そこで対抗手段はおのずとわが身とわが腕に限定されるのであり、内燃機関のない世界(産業革命以前)では移動は徒歩によるしかない。
 水星にある諸国。
デモンランド(修羅国): 英雄たちの国。ジャス王。スピットファイア(吐火卿)、ゴールドリイ・ブラスコ卿(二人はジャスの弟)。ブランドック・ダーハ卿。
ウィッチランド(魔女国): ゴライス家が代々支配する強国。ゴライス11世死去ののち、ゴライス12世が即位。修羅国に敵対。コオランド、コリニウス、コーサスの勇将。ゴブリンランドから亡命したグロ(参謀)。
ゴブリンランド(小悪鬼国): ガスラーク王。デモンランドのジャス王に協力。
フォリオット王国
グールランド(食屍鬼国): 物語の直前にデモンランドの軍隊によって滅ぼされた。
ピクシーランド(小妖精国): ラ・ファイアリーズ王
インプランド(小鬼国)

「文武に秀でた高貴なるジャス王とその二人の弟を戴く修羅国は,水星全世界に勇名を馳せていた。だが一方の強国、魔女国の大王ゴライス十一世は,世界に覇をとなえるべく修羅国に臣下の礼を要求してくるや,ジャスの弟プラスコは格闘仕合でゴライス十一世を屠り去ってしまった。やがて恐怖と権力の化身ゴライス十二世が即位,恐るべき魔物を三兄弟の上につかわしブラスコを虜にした・・・(文庫カバーのサマリ)」

 グールランドを攻略した修羅国は凱旋の宴を開く。平和を獲得したものの、兵士の損耗など痛手は大きい。そこに隣国魔女国からの使者が訪れ、ゴライス家に臣下の礼を要求する。一笑にふしたものの軍隊同士の戦闘を避けたいため、ゴライス11世とゴールドリイ・ブラスコ卿の一騎打ちで決着をつけることにした。この一騎打ち、反則は首絞め、かみつき、爪によるひっかき、目つき、拳による打撃であり、およそキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのルールに等しい。一本目は長時間の格闘の末引き分け、二本目はゴライスの反則(鼻に指を突っ込む)のすえブラスコの失神、三本目はブラスコの豪快な背負い投げ。頭を強打したゴライス11世は死亡した。これで和平の確約ができたかと思うと、魔女国のカルシー城では、ゴライス12世が魔を呼ぶ秘術を実行する。恐れ知らずの策謀家にして哲学者のグロを助手にして、7世が失敗した秘術をついに成し遂げる。現生に呼び出された魔は、帰還中のジャス王らの艦隊を襲い、ブラスコを世界の果てに幽閉することに成功した。
 弟の奪還のために、ジャス王らはゴブリンランドの王の協力を得て、カルシー城を攻める。いかんせん、不慣れな土地での夜間戦闘。ガスラーク王は追い払われ、ジャスとダーハもカルシー城にとらわれの身となる。
 あいにくピクシーランドのラ・ファイアリーズ王が表敬訪問したために、ジャスらの死刑は延期された。ゴライス12世とグロはジャス囚われが露見しないよう緘口令を引いたが、祝宴(ここの詳しい描写は見事)で泥酔した勇将の口から洩れてしまう。激怒したラ・ファイアリーズ王はゴライスに水晶の大盃を投げつけ昏倒させ、ジャスらを解放する。王は魔女国との締結ある故、ここまでしかできないと許しを乞う。ジャスらはいったん故国に帰ったのち、ゴライス奪還のために夢にでてきたインプランドの先にある世界の果てまで遠征することを決意する。
 ここまでで全体の三分の一(第1章から第7章まで)。
(デモンランドは信義と友愛の国であり、ウィッチランドは侵略と粗暴な国であり、その国の王から庶民までが同じ性格や行動性向をもっていることは疑いえない。この幻想物語では近世以降の人間はひとりもいない。なので、英雄は試練にあっても自己変容を起こさないし、庶民の人権は無視され命は安い。そのような小説は、近代以降のイギリス文学の本流からはずれるものではあるが、地下水脈のように流れているのである。自分の乏しい読書でも、アーサー・マッケン、ジョージ・マクドナルド、ルイス・キャロルらの系譜をつくることができる。奇妙なところがあるとすれば、20世紀になってこの幻想物語の作者が突然巨大な舞台で、重厚長大な小説を書き、そこがひとつの宇宙でもあるような想像力を注ぎ込んだことだ。ことにマーヴィン・ピークゴーメンガースト」シリーズとデイヴィッド・リンゼイアルクトゥールスへの旅」に並んで、エディスン「ウロボロス」の三作は他を圧倒するできばえ。)

 

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2020/03/27 E・R・エディスン「ウロボロス」(創元推理文庫)-2 1922年
2020/03/26 E・R・エディスン「ウロボロス」(創元推理文庫)-3 1922年