odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

湊かなえ「ポイズンドーター・ホーリーマザー」(光文社文庫) 事件に巻き込まれたり、事件の当事者を知っている女性のナラティブ。

 事件に巻き込まれたり、事件の当事者を知っている女性のナラティブ。

マイディアレスト ・・・ 妊婦殺害事件の調査聞き取りの記録。父の存在が薄く、独占欲の強い母にネグレクトされ、勘気の強い妹にバカにされている、空想癖のある女性。疎外が強まるにつれて、猫にだけ感情移入していく。ロバート・ブロック「サイコ」のリメイク。

ベストフレンド ・・・ テレビドラマの脚本家を目指している女性。最終選考に残ったが、優秀賞になったのは凡庸な女性だった。すぐにつぶれるかと思ったのに着々とキャリアを積んでいる。一方、自分はプロデューサーの眼にとまったものの、うだつが上がらない。ついにつてがなくなって脚本家になることをあきらめたとき、ライバルの女性は世界的なデビューを果たす。始末をつけなければならない・・・

罪深き女 ・・・ 無差別大量殺人を起こした被疑者を知っている女性の告白。アパートにシングルマザー同士が暮らす。どうも男の子は母から虐待を受けているらしい。そこで女性は世話をしていたが、自分の母が神経質になって自分のことを束縛する。あるとき、男の子に母がいなくなればいいのにといった翌日に火事が起きて、母は死んでしまった。それ以来会っていないが、私のことがきっかけになったのかもしれない。毒親に支配されていることに反発できない女性。あるいは親にネグレクトされる男の子。ドスト氏の「虐げられる子供」の主題を被害者側から描く。とはいえ、最後にひっくりかえる。

優しい人 ・・・ 「いい人」が殺された。その関係者が被害者の思い出を語る。のにあわせて、さまざまな他人に「優しい人」の思い出が重なる。他人に優しい行為が本人には苦痛であったり、優しくされた側がおせっかいに感じたり。

ポイズンドーター ・・・ 有名女優に「毒親」の告白をさせるオファーがくる。それで思い出す母親との関係。ぎくしゃくするのは本人と母との関係だけではなく、故郷に残る女友達との関係。で、タイトルを見直す。

ホーリーマザー ・・・ ポイズンドーターの語り手の友人。女優の母が自殺した、本当は毒親ではなかったという記事が出て、動揺する。記事の出所をしるために、「ポイズンドーター」で帰郷は止めろと言われたにもかかわらず押しかけてくる。

 

 ジェンダーに無関心でいられる男が読んで感想を書くというのは、おこがましそう。なので、大きな話で感想を書くことにしよう。
 どれもコミュニケーションの不足で、支配や独占があれば逃げ出せばいいだろう、という極めて手前勝手な結論を出してしまうからだ。でも「毒親」の件で言えば、親と子の関係、とりわけ母と娘の場合では、逃げ出すこともできないような関係が作られている。さまざまな言葉と態度によって、娘に罪障感をもたせて、逃げることを悪と思わせているし、他人との関係を持たせないようにして第三者の介入ができないようにしていたり。そうなってしまう心情は、マジョリティである男には理解不能なところがあるので、本書は参考になる(なので、男が読むべき小説だな)。ウームとうなって、自分の男としてのふるまいが「正しさ」を実現していたのかを考えこむことになる。
 文句があるのは、帯の「あなたの『正しさ』を疑います」というコピー。語り手たちが他人にやっていること、あるいは強要されていることに対して、行為が「正しさ」に基づくという認識。これは誤り。典型的なのは、毒親が支配する子供にむかっていう「あなたのためを思って」なのだが、そういう言葉やその奥にある(とされる)動機や意図に「正しさ」を認めるのは誤り。あくまで行為そのものとそれによる影響で判断しないといけない。動機や意図を「正しさ」の判断に使うのはダメ。支配や独占をする行為の結果で「正しさ」が決まるのだ。そういう視点では本書の語り手や関係者で「正しさ」を実行した人はいない。
 ミステリらしく最後にはナラティブがひっくり返される。そうすると、支配されていると思い込んで事の正当性が疑わしくなり、一種のリドルストーリーのような迷宮に落ち込んだ気分になる。そうなるのはアイリッシュのいくつかの作品のように、語り手がひとりか親-娘関係の引きこもり状態にあって、第三者の客観化する視点がないせいであるというのがわかる。自然と「信頼できない語り手」になっているわけで、これは21世紀の小説の趣向になるのだろう。

村田沙耶香「コンビニ人間」(文春文庫) ドスト氏「地下室の手記」第2部の思想性のない女性版。

 感想が書きにくいなあ。悪口をいいだしたらとめどなくなりそうだけど、そうすると自分の社会や他人に対する偏見をあらわにすることになりそう。なので、ブッキッシュな話題で韜晦することにしよう。
 他人と道徳や規範を共有していなくて、他者危害をしてしまう人がいる。子供の時から問題をおこしていたので(けんかをとめるためにスコップで殴り掛かるとか、ヒステリーを起こした教師の下着を脱がせて泣かせてしまうとか)、思春期以降は他人とのコミュニケーションを最小限にしようとする。大学卒業後、就職する気はなく、居心地のよいコンビニのアルバイトを続ける。そして18年。たまたま新人で入ってきたダメ男に説教しているうち、その男はアパートにやってきて、風呂場にこもるようになる。周囲は結婚するものを思い込んで「祝福」するので、なりゆきで退職することになる。
 なるほどダメ男がやってきて「家庭」が破壊されていくのか。阿部知二「冬の宿」とか大江健三郎「日常生活の冒険」とかウォルポール「銀の仮面」とかの系譜にある奇妙な闖入者に翻弄される話。本書のダメ男は21世紀的。虚勢は張るけど強いものにはへいこらし、弱いものにはとことん上手にで、女性にはセクハラ・パワハラをしかけるといういやらしさ。昨今ではネトウヨやモンスタークレーマー、ストーカーらによく見られるタイプ。これほど嫌悪心を掻き立てる凡人は小説にはなかなかいない。悪人もどこかにいいところがあるとか、悪人のほうが正義を体現しているとか、そういう設定の多い中、悪で不正義だけでできている悪人はめったに出てこないものな。(これを解決するには権力・司法の介入が必要なのだろうね)。
 あるいは奇妙な仕事の系譜をみてもよいかも。井伏鱒二駅前旅館」「珍品堂主人」、大江健三郎「奇妙な仕事」「死者の驕り」のような。20世紀の小説と異なるのは、コンビニがあまりにありふれていて、だれもがその仕事を見ているのに、内側からは描かれなかったこと。アマゾンの倉庫もそうだけど、行動がマニュアル化されていて、時間を計測されながら成績をあげていく。そういうのはチャップリン「モダン・タイムズ」のように批判や揶揄の対象になる、退屈で非人間的な労働とされる。でも、語り手の女性にとってはマニュアル化されていることのほうが心地よい。もともとの行動性向が他人と協調できないところがあり(自分のなかでマニュアル化できない)、他人のマニュアルを受け入れ、そのまま実践することのほうが簡単で落ち着ける。ジョン・バース「旅路の果て」(白水ブックス)の主人公も、他者のマニュアル通りに行動しようとしたが、彼の場合はまわりは人間的過ぎて破綻。でもコンビニという場所では、個人的・人間的なところを排除する労働の空間で他者とのコミュニケーションは限定的なので、語り手は失敗しない。
 かつて社会や他人との関係がうまくいかないときは、引きこもりができたけど(ドスト氏「罪と罰」のラスコーリニコフが典型)、今では食事を定期的に持ってきてくれる下宿付きの女中などいない。なので、アパートに住み、個人的・人間的なコミュニケーションが不要なところで働いて、自活しないといけない。そこが社会の大きく変わったところ。たぶん19世紀のラスコーリニコフよりも忙しい。その分、空想にふけることが乏しくて、思想や観念をこねくり回すことができなくなったのだろうな。
 そういうところで、この小説はドスト氏「地下室の手記」第2部の思想性のない女性版なのだろう(あれ、書く前に考えていたことと逆の結末にいたってしまった)。

 

池井戸潤「アキラとあきら」(徳間文庫) 21世紀のゼロ年代にはうまくいきそうな経営判断は10年代の低成長と諸外国の伸長では成功するかなあ。

零細工場の息子・山崎瑛と大手海運会社東海郵船の御曹司・階堂彬。生まれも育ちも違うふたりは、互いに宿命を背負い、自らの運命に抗って生きてきた。やがてふたりが出会い、それぞれの人生が交差したとき、かつてない過酷な試練が降りかかる。逆境に立ち向かうふたりのアキラの、人生を賭した戦いが始まった―。感動の青春巨篇

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 このコピーを読んで、江戸川乱歩「暗黒星」(講談社文庫)のような親子二代の復讐と冒険の活劇を期待した。すっかり肩透かしをくらった。このもやもやした気分をどこにぶつけよう。
 二人のあきらがいる。ひとりは潰れた町工場の息子、もうひとりは地方の中堅企業の息子。優秀な二人は東京の有名大学の経済学部にはいり、バブル期に銀行に入社する。最初の社員研修で、模擬プレゼンのファイナルでであう。以後、別の部署でバンカーになる(町工場の息子は中小企業担当、御曹司は大企業担当になる)。御曹司は実家の経営がうまくいかなくなり、20代なかばで社長にならざるを得ない。一族の確執、陰険で能無しの役員、口車に乗せられてお荷物になったリゾートホテルとふんだりけったり。ちょうどバブル崩壊後の金融危機となって、融資は思わしくない。でも御曹司のあきらは打開策をみつけ、町工場の息子のあきらがその企業の担当になり、融資を引き出す。
  初出は2017年だが、最初の連載は2006-9年だそう。作家のキャリアの若いころかな。そのせいか、章ごとに出てくる経営上の問題はMBAのアカウンティングやファイナンスケーススタディににている。昔、アカウンティングの研修を受けたことがあるから、キャラたちの説明は納得できるものでした。小説でMBAのような検討ができるというのはそういうのを目指している人にはいいのではないの。
 どうも突き放した感想になるのは、いつものようにマリオネットみたいなキャラが善悪がはっきりと分けられていて、最後に留飲をさげられるような勧善懲悪の物語になっているのは置いておくとして、1990年代の金融危機では銀行が不良債権を抱えて、それ自体の経営が危うくなり、小説のような親身な対応をするどころか融資をむりやり返金させ、同額を新規に貸し付けるという約束を反故にするという貸しはがしをやっていたから(日本経済新聞社編「金融迷走の10年」日経ビジネス文庫が参考になる)。なので、この小説はおとぎ話にしかみえないのだよ。
 それに、経営の判断が実務にあたっている社長や役員よりも、優秀なバンカーの稟議のほうが正しいというところも。自分があったことのある銀行や証券会社の人たちは、個々のビジネスに責任を持たないので、岡目八目で理論的な「正しさ」はいうけど、そこまでだしねえ。(おかげで本書や銀行を舞台にした作者の小説は作者の自己弁護、自己美化にみえてしまうのだ。)
 また、つぶれかけたリゾートホテルを外国人観光客向けにして再建するとか、中堅ビジネスの海運会社をアジア航路にすることで拡大するとか、21世紀のゼロ年代にはうまくいきそうな経営判断が10年代の低成長(というかマイナス成長)と諸外国の伸長でどうもうまくいかないのではないかというところも。物流のハブは韓国とシンガポールに移ったし、金融証券も上海や香港のほうが拡大しているし、物つくりで日本はダメになっているし。外国人観光客が増えたのは物価が安いわりにサービスがよい、すなわちサービス業の低賃金に基づく。1990年から日本の給与はほとんど上昇していない。小説の明るさは現実の貧しさを忘れるほどの強さを持っていない。