odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

都筑道夫「魔海風雲録」(光文社文庫)「善亭武升なぞ解き控 」「西郷星」

 光文社文庫の「魔海風雲録」に収録された短編。

善亭武升なぞ解き控 以下の短編のまえに「湯もじ千両(1984)」があるが、収録された「悪夢録画機」を未入手なので内容はわからない。以下の三篇は本書が初書籍化らしい。柳剛流(実在する剣法なんだって!)の名人の善亭武升は旗本の次男。攘夷だのと騒がしい世相だが、幕府体制では芽が出ない。そこで、戯作者・富亭竹升の弟子になった。大小は差さないものの、押し入れにあるそれをときには持ち出さざるを得ない。

犬むすめ  1996.06  ・・・ 富亭竹升の家のまえに、犬むすめ(首が犬で、体が娘)の死体がおいてあった。戯作者が恨まれてる理由はない。以前「木更津奇聞犬娘」という読本(時代伝奇小説みたいなもの)を書いたことがあるくらい。

壁龍 1996.12 ・・・ 商家に忍び込んで五両だけ盗むという盗賊が江戸をにぎわしている。ときに、掛け軸にこれは偽筆と書き残したりする気障な野郎。千吉の依頼で武升は頭を働かせ、隣の宗匠も聞き覚えをしようという。

茨木童子 1997.06 ・・・ 忍者の娘が隣にすむようになり、手癖の悪さか修練か、道場から蝋人形の腕を持ってきた。よくみると、それは本物の人間の腕(ミイラ)だった。というわけで、武升は道場主を訪ねる。

 善亭武升のキャラクターは左文字小弥太そっくりで、頭の冴えはセンセーみたい。ただ、町人に姿を変えたので、上から物申すこともできず、下を這いつくばることもできず、探偵の動きは鈍い。それは顎十郎と同じなのだが、そこまで個性が強いわけではない。肩入れしているコミュニティがあるわけではないので、彼の行動には切迫感がない。いっそセンセーのような報酬目当ての私立探偵になるのもよさそうだが、最下層に加わるほどの度胸もない。ふさわしい事件がないと、活躍しにくいなあ。
(「善亭武升なぞ解き控」は、「新・顎十郎捕物帳1984年)」「女泣川ものがたり(1985年)」「幽鬼伝(1985年)」とほぼ同時進行。似たような話になってしまうのを避けたのかも。)

 

西郷星 1989.12 ・・・ 明治10年(1877年)、西南の役も終えたのに、西郷隆盛の人気は高く、西郷星という星が噂になったとか、肖像画が売れたとか。東京の質屋の主人が殺され、口に西郷の絵が押し込まれていた。しばらくして、店に火が上がり、おかみさんが焼け死んだ。現場に行くと、主人の妾を探しに来た娘がいた。という謎を解くのは、東京大学の雇われ教師のエドワード・モース(作中では当時の呼称でエドワルド・モールス)。江戸っ子の車夫や旗本の息子の書生らが、岡っ引きから刑事に転職した探偵小説の依頼で動く。モースというまれにみる好奇心の持ち主を探偵にしたのが慧眼。来日する前にエドガー・A・ポーの短編を読んで感心したと述懐させるくらいに、科学と合理の持ち主。たどたどしい英語と日本語の会話はキリオン・スレイのようだし、車夫や書生らの境遇は「捕物帳もどき」「チャンバラもどき」のようだし、と、センセーの仕事の集大成のよう。ことに明治初期の東京を描写がみごと。ここから黒岩涙香「無惨(1889)」や岡本綺堂半七捕物帳」との距離はほんのわずか。

 

読み返すたび、なにかしら、新しい発見がある(わが古典・岡本綺堂「半七捕物帳」) ・・・ 「時代小説を書くときには必ず『半七捕物帳』を読み返すことにしている。」「会話がたくみで、情景描写も豊富なので、読んでいると、幕末や明治の街に、身をおくような気がしてくる。」「わずかな言葉で、人間を描く腕は申し分ない。」「多くのひとの話しかた、書きかたに品格が失われている昨今、平易でいながら、品のある文章も、まなぶべきではないだろうか」

忍者が来た(私家版人間評判記・猿飛佐助) ・・・ 猿飛佐助は大正時代の立川文庫の創作だという説があるが誤りらしい。上方落語の昔の名人に聞くと、明治のころからその名のキャラクターはいたと証言された。猿飛佐助は「魔界風雲録」「変幻黄金鬼」に登場させるほど、センセーはお気に入り。

時代小説をめぐる三つのあとがき ・・・ 時代小説、伝奇小説作家として原稿料をもらっていた19歳からの駆け出しのころの思い出。センセーの小説の最高の解説者は本人自身。

ヤコブセン「サボテンの花ひらく」(プロジェクト杉田玄白) 娘への求愛物語で語られる諦念と悲嘆、運命への呪詛。

 杉田玄白プロジェクトによって、ヤコブセンの「サボテンの花ひらく」が翻訳されているので読む。ここには、シェーンベルクの「グレの歌」の歌詞が収録されているので前から気になっていた。

blaalig.a.la9.jp


 訳者の解説によると、「サボテンの花ひらく」は1867年から1870年ころに書かれた、若書きの未完作品。軍事顧問官が育てているサボテンが夜に花を咲かす。それを見ようと、5人の若者と裁判官が集まった。花が咲くまで時間があるので、詩人である若者たちがそれぞれ自作を朗読する。彼らの目当ては軍事顧問官の娘ユーリエ。他の連中の鼻を明かそうという心づもりか。まあ、若者のひとりカールがずっとユーリエといちゃついているので、思惑はすかされただろうが。朗読された作品は以下の通り。タイトルと作者(とされる作中人物)
『秋』ポウル
『気分』イェスパ
アラベスク』ペア
『異邦人』イェスパ
『グアの歌』ポウル
『コーマクとステンゲアデ』マス(未完成)
 ここではシェーンベルクが曲をつけた「グアの歌」(ドイツ語訳では「グレの歌」)に注目しよう。もちろん、シェーンベルク畢生の大作を聞きながら読んだ。推薦盤はヤコブセン「ここに薔薇ありせば」(岩波文庫)を参照。
 主人公のワルデマルとトーヴェの悲恋は中世デンマークの実在の王様にあったことらしい。ただし史実に忠実であるわけではなく、モデルも複数いて特定できない。ワルデマル王は愛人トーヴェと何度も逢瀬を重ねたが、トーヴェは突然亡くなってしまった。悲嘆にくれるワルデマル王は従者や農民を従えて放浪する。その無意味さや疲労に耐え兼ねる道化師や農民。ついには、土地の亡霊となってしまう。
 解説にあったのだが、亡霊を追悼する「夏風の荒々しい狩り」のあと、語り手は現実(19世紀末)の無名氏になる。シェーンベルクの曲の構成を使うと、第1部はワルデマルとトーヴェのモノローグが交互に現れる。山鳩によるトーヴェの死の報告があって、ワルデマルの妄想と狂乱、それに集団が従うシーンが続く。中世の伝承を再話するのはここまで。彼らは土地の亡霊となり、グアの城は荒廃してしまうのだ。それを数百年後の現代人が訪れて、浄化を命じる。そういう枠の構造があるというのだ。シェーンベルクは現代人が伝承の場を訪れていることがわかるようにする。それが語るように歌うシュプレッヒシュティンメという手法。
シェーンベルクの「グレの歌」は数十年も愛聴してきたのに、この構成にはちっとも気づきませんでした。解説をろくに読まないせいでしょう。)
 ワルデマルとトーヴェの愛の語らいが奇妙なのは、二人が会う・一緒にいる時間がないこと。これから起こることへの期待とすでに終わったことへの哀惜だけが語られる。破局が来るのを知っているかのように、あらかじめ追憶と後悔をやっている。ほぼ同時代にワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」があって、そこでは二人はわずかな機会の逢瀬である「いま-ここ」に執着しているのに。
 それを反映しているのか、シェーンベルクの「グレの歌」には陶酔や崩壊のエクスタシーがない。どこか醒めていて懐古にふけるばかりの諦念の音楽。ドイツのロマン派音楽はできてから100年もたつと、すでに創造力や生命力がうせてしまったのか。元気をだしたり、意欲に燃えたり、未来に希望を見たりすることがない。そういう爛熟して朽ちる寸前の音楽。若いシェーンベルクはどうしてこの長編詩に曲をつけようと考えたのだろう。不思議だ。

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ドイツ語日本語対訳字幕付き

 

 他の作品は簡単に。
 「秋」と「気分」は詩。
 「異邦人」は短編。スペインから来た娘と土地の男が結婚する。娘が死に、のちに妻が死ぬ。生き残った男は悲嘆にくれ、教会への埋葬を拒み、悲しいダンス音楽を奏でる。不審がる村人。「ベルガモのペスト」のような反キリスト教のモチーフ。神への呪詛は「グアの歌」と共通。
 「コーマクとステンゲアデ」は未完の短編。詩人コーマクはステンゲアデと結婚する予定であったが、四季の前日に行方不明になってしまった。しばらくして帰還したコーマクとステンゲアデはなぜと詰問するが、コーマクの返事は要領を得ない。コーマクをかばう兄にステンゲアデは惹かれていく。近世の田園地方で起きたワーグナータンホイザー」みたい。「タンホイザー」のような芸術と禁欲に関する思想はここにはないけど。
 共通するのは、すでに物事は終わっているという諦念、もう戻らないという悲嘆、不条理への怒り、運命への呪詛。戦いをするには彼らはすでに疲れていて、静かに老いていく。

ニコライ・レスコーフ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」(青空文庫) 殺人にかかわったカテリーナはロシアに生まれつつあった肉体と他人を嫌悪するモッブ(@アーレント)の先駆者。

 カテリーナは、クルスク育ちの貧乏人、器量よしだったのでムツェンスクのイズマイロフ家に嫁いだ。不幸なのはカテリーナは20代前半なのに相手は50代のジノーヴィ。そのうえボリス爺さんという好色な舅がいる。ムツェンスクは小都市とはいえ、大きな商家にひとりでいると退屈でたまらない。もともと教育を受けてきたわけではないので、退屈をまぎらわす教養を持っていないのだ。
 クルスクからムツェンスクまでの行程は地図のよう。いまでこそ自動車や電車で半日の距離だが、当時は徒歩と馬車で数日かかりだっただろう。もともと根無し草だったので、クルスクに帰っても係累はいない。なので、夫がいない間に里帰りをすることはない。

クルスク クルスク - Wikipedia

ムツェンスク ムツェンスク - Wikipedia

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 美貌の持ち主だったのでボリスが言い寄り、商家の勤め人セルゲイが色目を使う。長い旅行から帰ってきたジノーヴィはカテリーナの破廉恥なうわさを聞いている。商家を継いだが、資金を提供した男の子供がいて実権を握れない。このような状況において、カテリーナは関係者をすべて殺してしまうのだ。最初はボリスを毒殺、詰め寄るセルゲイを絞め殺し、子供の口をふさぐ。あいにく最後の殺人が住民の目撃するところとなり、カテリーナとセルゲイはシベリア送り。このころにはセルゲイもカテリーナに愛想をつかし、別の女といい仲になる。もはや孤立無援のカテリーナ、冷たい雨に打たれる船の中、執拗にカテリーナをからかうセルゲイの女もろとも川に飛び込むのである。
 カテリーナの殺人には動機がない。たんに現在を邪魔するものをその場で亡き者とするだけ。イズマイロフ家を乗っ取ろうとか、セルゲイと愛の王国をつくろうとか、そういう計画や目的や理想はないのだ。そうなるのは、カテリーナが自分のことを価値や意味がないと思い込んでいるから。都市から田舎の町に一人やってきて、誰も知りあいはなく、友人を作れず、衣食住に困ることはなくても生活は空虚。それを変革する意思や意図はもたない。なので、カテリーナは探偵小説の犯人(ヴァン・ダインの二十則に基づく)になれない。
 自分に意味や価値がないと思い込むのは資本主義の競争から脱落したり参加できなかったりしていて、他人とのつながりを欠いているところに由来する。脱落者で余計者だという自己評価は、他人にも意味や価値を見出せない。他人は目的ではなく、自分の欲望を妨げる邪魔者か実現するための手段なのだ。だから殺すことができる。ラストシーンのようにカテリーナは自分の肉体も嫌悪しているので、自分で自分を殺すこともできる。


 1864年の小説をドミトリー・ショスタコーヴィチが1932年にオペラ化した。原作は深みのない扇情小説という趣きだが、文学にも見識のあるショスタコーヴィチゴーゴリ「鼻」、ドスト氏「賭博師」をオペラ化)が取り上げたのは、ロシアに生まれつつあったモッブ(@アーレント)の先駆をカテリーナに見たからと妄想する。退屈な主婦が若い男に入れあげて不倫にふけるというのはトルストイアンナ・カレーニナ」にもあるのだが、ロシア宮廷と資本家の上流階級で起こる事件はモッブのものではない。単なる猟奇的殺人者というわけにはいかないカテリーナに、本人が自覚していない近代性をみたのだろう。(で、そのようなロシアのモッブが1918年のロシア革命を起こしたのだと妄想する。)
肉体嫌悪、他人嫌悪などのモッブのありかたは、フランク・ヴェデキント「地霊・パンドラの箱」(岩波文庫)のルルにも共通している。ルルはジャック・ザ・リパーに殺されるところが違うけど。ショスタコーヴィチアルバン・ベルクがほぼ同時期にモッブを主人公にするオペラを書いた。殺人をテーマにしても、ビゼーカルメン」やプッチーニ「トスカ」はWW1以降には成り立たないということだと思う。)