odd_hatchの読書ノート

エントリーは3600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2026/7/3

川田稔「昭和陸軍全史 3 太平洋戦争」(講談社現代新書) 日中戦争を解決できなくなり新たに対米戦も準備するとなると、陸軍の思考はハングアップする。

2026/07/16 川田稔「昭和陸軍全史 1 満州事変」(講談社現代新書) 日本陸軍は戦争状態を継続することで、国家による統制を強化し、臣民に犠牲的奉公を強要する。 2014年
2026/07/15 川田稔「昭和陸軍全史 2 日中戦争」(講談社現代新書) 対中戦争が膠着化すると、ナチスドイツの真似をして戦争を拡大する。 2014年の続き

 

 昭和の日本陸軍の動きを描く3部作の第3作。1940~41年の対米開戦決定までを陸軍視点でみる。

 1930年代の日本の国防思想には対米戦はなかった。石原のように先送りされた最終決戦で対峙するか、海軍のように対米戦は回避するという考えでいるか。昭和15~16年に陸軍を牛耳っていた統制派(だいたい一夕会)には中国とソ連は頭にあってもそれ以外はほぼ無視。持久戦になったら中国の資源だけでは不足する。となると東南アジアに進出するが、そこでは英国との衝突不可避という程度の認識だった。その程度の情報と認識でいたところにアメリカがクローズアップされる。欧州大戦がはじまったせい。
 すなわちナチドイツは1939年ポーランド侵攻を開始する。独ソ不可侵条約があるので東部戦線は拡大しない。そこで西部戦線に進出し、ベネルクス三国とフランス北部を占領。そこで日本は独伊に近寄り、三国軍事同盟を結ぶ。とくに世界分割の野望があったわけではなく、それぞれが英国を牽制しあって自国の戦略を有利にしたいという内容だった(日本は中国から東南アジアの利権を独り占めするのを承認させる目論見があった)。ここでアメリカが日本の東南アジアに難を示す。そこはイギリスの植民地。日本が進出すると英国は手を出さざるを得ず、英国の弱体化が進む。英国はアメリカの重要な防衛パートナーなので、孤立させるわけにはいかない。
 アメリカは中国の利権にはさほど関心がない。日本への輸出は中国への輸出の7倍。それを放棄する考えはなかった。でも対日外交を始めたのは、ドイツがソ連侵攻を始めたため。ソ連は極東の軍隊を対独に使わないといけないので兵力が少なくなる。すでに日ソ不可侵条約が締結されていたので、北方の脅威がなくなった日本は南方進出を進めるだろう。そこでアメリカは介入する。最初は日本の中国占領に譲歩していた。日中戦争(1937)以前の占領地迄撤兵しろというもの。それが独ソ戦争開始によってより強硬な態度に変わる。軍事同盟の解消、満州事変前の状態に撤兵、満州国不承認など。認めなければ石油禁輸措置発動。
 1941年、日本は日中戦争終結の見通しが立たず、早期解決を望んでいた。そこで日米首脳会談を打診し、事前協議を進めた。そこでこのような条件がアメリカから出され、対米開戦に慎重だった海軍や外務省、宮内庁なども開戦を決意する。近衛文麿は内閣を投げ出し、陸軍大臣が総理大臣も兼務するという類例のない内閣ができる。ここまで陸軍の国防政策を立案してきた武藤章・田中新位置が東条英機の逆鱗に触れて更迭される。以後、国家的な方針を提案できるものが陸軍中枢にいなくなる(一夕会出身で統制派に近いものばかり優遇される)。したがって国防方針が尽くつぶれていくのに対処できなくなり、講話工作をすることもできない。膨大な損害を出してからようやく終戦工作が始まるのは海軍出身者が総理大臣になってから。
 日中戦争が膠着して解決の見通しがたたなくなり、しかし対ソ戦と意識するとなると、日本は持久戦を覚悟しなければならない。そこで自給自足のブロック経済圏を作ろうと画策し、東アジアに東南アジア(と南洋諸島)をいれた「大東亜共栄圏」を構想する。1939年ころから。英仏蘭の植民地を占領するから、「西洋帝国主義国家からのアジア民族解放」というお題目が急遽追加された。対米開戦後の戦争を「大東亜戦争」というのはこの帝国日本の構想を肯定するため。敗戦後は安易に使うのは止めましょう。「大東亜共栄圏」がアメリカの海外政策とぶつかった。日本が中国大陸に固執している間はアメリカは譲歩できた。しかし東南アジアに進出し、英米を分断することは容認できなかったのだ。中国とソ連ばかりみていた陸軍のドジ。対ソ戦と対中戦に加えて対英米戦の三つの同時作戦をすることになると、もう対処法がわからない。相手の出方を予測して、よい機会がある方に賭ける。それが裏目にでると、また機会をうかがう。先送りした決戦のために兵力を温存しようとして小出しの逐次投入になり、負けを広げる。30年代の帝国日本は明確な国家ビジョンをもっていたと評価されていたのに、欧州大戦がはじまってからは右往左往。英米、ソ連、中国がしっかりしたビジョンをもって、国家と軍隊の運営をしたのと大違い。軍隊のリソースとか資源の枯渇とか科学力の差とかの前で、すでに負けていた。

 25年間の陸軍のダメさを三冊で見てきた。そこから俺が見た失敗の本質は以下。
・大学と同じく軍隊も創立時期はお雇い外国人に教授させ、生徒が留学をすますと、外国人を解雇し日本人教師にする。すでに栄達した日本人は進取の気勢を失っていて、ふるい知識の伝授に努める。学業の質が落ちる。
・教育勅語や軍人勅諭に基づく国体思想イデオロギーの教育が浸透する。合理的・論理的思考がなくなり、懐疑することが叱責され、異論を主張するものが排除される。思考の順軟性が失われ硬直化する。伝統を遵守することがよいとされ、過去の成功体験を状況の異なる現場にむりやり当てはめて繰り返す。
・同じ教育を受けたものがすくないポジションを争う。派閥ができて、派閥間の競争が重大になる。評価基準が組織の忠誠で決められていく。仕事の目的が組織(のうちの所属する部署)の最適化や最高利益になる。それらを合計しても組織の最適化・最高利益にはならないのに修正できない。

(秩禄処分で職を失った士族や重税と人口過剰な農民のなかで、学費がかからず高等教育を受けられ立身出世ができる道が陸海軍の大学校くらいだったのがまずかったなあ。頭のいい人たちが集められたけど、上のような問題のおかげで成果をだせなかった。安い学費で高等教育や職業教育を受けられる道をたくさん用意するほうがよかった。そうすれば多くの分野でいい成果がでたんじゃね。国家は、戦艦や軍用機や大砲をたくさんもつより、公共インフラと教育に投資するべき。)


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江口圭一「十五年戦争小史」(ちくま学芸文庫) 満州事変、日中戦争、対英米ロ戦争が関連した複合戦争。民衆は戦争熱に取りつかれ、軍と政府は熱狂する民衆を恐怖しつつ統制する。

 名著。傑作。大日本帝国を終末においやった対中と対英米、その他の戦争を把握するのにとてもよい。もとは大学の教養学部(1~2年生)向けの講義をもとにしていて、義務教育ではほとんど触れられないために日本の近代史(維新以降)を知らない人向けに書かれた。なので、わかりやすい、全体把握がしやすい。まずはこれから読みましょう。
 おもえば帝国日本は憲法を発布してから、軍隊を海外派兵していて、諸外国で戦争・衝突・小競り合いをしてきた。周辺地域を植民地にして治安の一端を軍隊に担わせた。なので帝国日本はつねに戦争状態だったと言えるのだが、帝国の壊滅という視点からすると、1931年の満州事変から1945年の敗戦までが最も重要。資源のない列島は立憲制を取った時から英米の資本や資源に頼っていた。輸入がないと成り立たないし、技術が英米から買うしかない。一方、東アジアの覇権国家になるにはアジア地域から英米などの西洋帝国主義国家を排除しなければならない。この矛盾を解消する方法はないのに、さまざまな術策を用いて帝国を拡大しようとしていた。その矛盾が体英米戦争で露呈して、完全に破綻したのだった。
 著者は、満州事変から連合国への敗戦までの15年間(満で数える)を3期にわける。1931/9/18の満州事変以降、1939/7/9の日中戦争以降、1941/12/8のアジア太平洋戦争(対英米ソ)。これらは正確と目的が異なる戦争だが、連続していて、内的に関連をもっている。人為の所産であり選択の結果だった。とはいえ、ひとつの方針で一貫しているわけではなく、曲折に充ちた過程をたどった。本書に登場する人物だけでも多数。誰か一人がイニシアティブを持つことはなく、入れ替わりが激しいグループとして運営され、小グループの間では競争や諍いなどがあった。それが他の全体主義国家との大きな違いで、西洋のファシズム分析をそのまま適用できない理由になっている。ただ一人すべてに関与した人物がいるが、敗戦後、アメリカの施策で犯罪責任を問われなかった。その一人の人物、昭和天皇の戦争責任を本書は追及する。その議論に同意。1986年のあとがきでは、この十五年戦争によって列島の国民は天皇への信頼を失ったとする。あとがきから約半世紀たって、これはどうか。この国の国民は天皇の政治関与には忌避感を持ち続けているだろうか。

 

 政府や議会、軍部がどのように戦争を拡大していったかは、複雑な経緯になるので、サマリーは作らない。以下を参照。
 林茂「日本の歴史25 太平洋戦争」(中公文庫)-1 226事件終了後から敗戦まで。1936年から1945年までの10年間。日本型経営システムが破綻していく。 
 林茂「日本の歴史25 太平洋戦争」(中公文庫)-2 戦局が悪化し、物資が乏しくなり、長時間の労働を強要されるようになると、人々の参加意欲は失われるが、日本人は抵抗しない。 
家永三郎「太平洋戦争」(岩波現代文庫)
 木坂順一郎「太平洋戦争 昭和の歴史7」(小学館文庫)
 木坂順一郎「太平洋戦争 昭和の歴史7」(小学館文庫)
森本忠夫「マクロ経営学から見た太平洋戦争」(PHP新書)
川田稔「昭和陸軍全史 1~3」(講談社現代新書)
 メモに残しておくのは、十五年戦争の時代に民衆・臣民・国民がいかに戦争熱(War Fever)を持っていたか。たとえばこんな記述がある。

「民衆の反応は、(一九三一年)一〇月二四日国際連盟理事会で日本が完敗を喫したことで一変した。「国難到来」の強烈な危機感が民衆をとらえ、中国・連盟にたいする敵意・憎悪と日本軍将兵への感謝・激励とが一挙に噴出し、排外主義的・軍国主義的風潮がいちじるしいたかまりをみせた。 (p.65)」

 感謝激励は路上の示威活動になったり、新聞雑誌などへの投書になったりだった。柳条湖事件の調査が始まると、国際連盟脱退推進のデモや街宣が各地で行われた。「中国・連盟にたいする敵意・憎悪」も約十年前に関東大震災に乗じて在日の朝鮮人や中国人、沖縄人などを虐殺したことと地がつながっている。
 中国蔑視と敵視はずっと続く、日中戦争がはじまったときも以下の通り。

政府は日中戦争を「暴支膺懲」のための「聖戦」と称し、新聞・ラジオは排外熱・軍国熱をあおりたてた。在郷軍人会・青年団・婦人会などの半官製諸団体が戦争支持の活発な行動を展開した。民衆のあいだには国防献金・献納、慰問金醵出などの慰問活動、従軍志願その他の戦争支持気運が盛りあがった。(p.176)

 

戦勝祝賀行事も精動運動の重要な一環であったが、民衆がその歓喜と驕りを爆発させる場となり、東京市の例では、南京陥落祝賀提灯行列は一二月一四日四〇万人、武漢攻略に際しての提灯行列は三八年一〇月二八日一〇〇万人に達した。(pp.176-177)

 民衆・臣民・国民の戦争熱は、軍隊の行動を規定するところまで行く。というか、政府や議会、軍隊は民衆を扇動しながらも、民衆の動向を気にしていた。どう動くかわからない民衆なので、支持を失わないように行動していった。しかも、政府も議会も軍隊も民衆・臣民・国民を信用していなかった。1945年の終戦の決定においても、敗戦・戦争終結の決断をすると民衆・臣民・国民がどう行動するかわからないので、現状を壊すことを躊躇した。なかには近衛のように民衆が共産主義化するという恐怖に捕らわれているものもいた。
 大日本帝国は、国家をリードする層と民衆の間に溝があり、リーダーは民衆を信用していなかった。民衆は扇動に乗っかっているときは国家を支援したが、リーダーが民衆を見放すとすぐに支持しなくなった。むしろ古い体制を憎悪した。維新と1945敗戦の共通点はここにあるのではないかしら。

 

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日暮吉延「東京裁判」(講談社現代新書) 裁判の内容をよく知ってから、不十分だったことを追求しましょう。全面肯定・全面否定は無意味。

 ネットで検索すると「東京裁判」関連本は、極右や歴史捏造者による否定本だらけという惨状になっている。東京裁判が勝者に取る政治的な懲罰であって、日本人を恥辱するものだという感情と、些細な出来事を誇張し都合の悪い事実や主張は隠すという悪質な内容のものばかり。日本人が戦争責任をどう受け止めたのかというデータにする以外には価値のない本を参照することはない。


 とはいえ、東京裁判の全貌を描いた本となると極端に少ない。この数十年は児島嚢「東京裁判 上下」(中公新書)くらいしかないという状況だった。そこで、2008年にでた本書を読む。特長は、東京裁判の試料の一部は未公開だったが、21世紀になってから公開されたものがあったり、関係者の自伝・回想録などがでてきたりしたので、それらを参照する。今までの定説になっていたことを検証する作業をする。また東京裁判にあたって全面的な肯定や否定をしない。裁判に関与した戦勝国や被告になった日本の両方の立場から見ることにする。そうすると、東京裁判は単純な勝者による敗者の処罰ではないし、裁判官・検事・弁護人らがそれぞれ一枚岩に団結していたわけではない(それぞれの政府の意向に従属しなければならない一方、個性的な人々は政府や裁判所の手を焼かす)。敗者の国民は感情的な反発をもったが、裁判で明らかになった事実に震え上がった。敗者の国民は戦争犯罪の概念がよくわからず、「A級戦犯」を犯罪人ではなく被害者とみてしまった(なので懲役刑の被告は巣鴨プリズンで厚遇され、講和条約締結後政治家に復帰することを許した)。なにより英米式の裁判方法がよくわからなかったのだった。また、裁判の構成国も長い時間をかけ費用が膨大なわりに人々の関心が薄れたので、第2次裁判をやる気がなく、冷戦を口実に終了してしまった。なお、パル判決は「日本無罪論」として喧伝されているが、彼の主張は「平和に対する罪」は成立しないということで、日本人と軍の残虐行為は非難している。
 というわけで、裁判を評価することよりも、何が問題なのかということが重要だと俺は読んだ。
・東京裁判で罪とされたのは、A.平和に反する罪、B.戦争犯罪、C.人道に反する罪。被告にされたものは戦時の言動がどれに該当するかでクラス分けされた。そのさい、日本語では「級」の訳語になったので「A級」は最も犯罪の責任が重いものと思われてしまった(なので、スポーツではそういう比喩に使われる)。実際は、「A級戦犯」は戦争を開始した罪が問われている。でもこの国の思想や精神では開戦責任はあまり問われない。むしろ「A級戦犯」は敗戦責任を問われたものだとされた(なので被害者として同情が生まれ、彼らの名誉回復を主張する極右が現れる)。
 判決に関しては、以下をもっと考えないといけない。
1.ドイツにはナチス党という全体主義運動集団がはっきりしていたので、開戦責任を党と指導者・幹部に取らせることができた。しかし日本では、そのような明確な政治集団がない。政治家でも政党でも行政でも軍部でも、内部抗争があり覇権グループは頻繁に入れ替わった。そこで「共同謀議」が1927-1945年にあったとされる。これは日本のインサイダーからすると受け入れがたい政治評価になる。日本型ファシズムで開戦責任はどのようにあるのかを研究することは大事(丸山真男を読めばいいのかなあ。この人の議論は古すぎて参考にならない気がしている)。
2.そうなるのは、マッカーサー他裁判の構成国がそうそうに「天皇免責」を決めてしまったから。天皇の戦争責任は東京裁判を考えるとき重要。俺は天皇に戦争責任はあるとみる。
3.Bの戦争犯罪やCの人道に対する罪は、南京事件を除くと、太平洋圏の戦地で行われた行為だけが取り上げられた。中国が自領土内で裁判を進めたことと国共内戦が激化して裁判に力を入れられなかったことが理由。そのために、中国や東南アジアの残虐行為が明るみにでなかった。南京事件は当時の国民に大きな衝撃を与え、恥辱であると思われた。しかし講和条約後に元軍部や右翼によるバックラッシュでうやむやにされ、事実が知られなくなった。ここは大きな問題で歴史捏造や極右の「歴史戦」で矮小化や否定論が出てくるもとになった。また、「残虐行為」の命令がどこからあったか、どのように実施されていったかの研究がおろそかになっている。
 東京裁判では戦争の開戦責任と戦時の犯罪が裁かれた。そのために南京事件のような国外の犯罪が訴因になった。しかし植民地支配中の犯罪は訴因にならなかった。ポツダム宣言受諾のあと、植民地にいた日本人はいっせいに帰国したので、司法行政などの政治権力が空白になり、植民地時代の犯罪が裁かれることがなかった。植民地時代の犯罪や戦時の「敵国人」差別を断罪し、被害者に謝罪や賠償などを行うことは多くの国で行われているが、日本は敗戦後一貫して植民地時代の犯罪を裁こうとしない。謝罪や賠償はほとんど行われていない(徴用工や慰安婦らに行われているのは、当該国の被害者が裁判を起こしたから)。「日本は植民地支配していた朝鮮にインフラ投資などして資産を残した」がダメなのは、植民地支配中の犯罪を処罰しなかったことが無視されているから。自国の犯罪を自国民で裁く作業は国の名誉回復と周辺諸国との友好関係維持には絶対に必要だ。
 なお、1952年の講和条約では、東京裁判を受諾する条項が入っているそう。あの判決を受け入れることが占領状態を解除し国際社会に入ることが許可される条件になっている。なので、日本の国内で否定をうだうだいってもこの裁判がなかったことにはできない。
(「東京裁判史観」だとかいって東京裁判を否定するほうこそ、東京裁判の訴因と判決にこだわっていて、その枠組みの中でしか物事を考えられない。)
 また、WW2のあとにもたくさんの戦争があったが、敗戦国の戦争責任を問う戦争裁判が開かれたことはない(はず)。戦争を終結させる国際的な行為として戦争裁判は有効ではないのか、なぜ権威を持たないのか。21世紀の戦争はどのような手続きによって終結するのかも検討しないといけない。 

 

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