odd_hatchの読書ノート

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エラリー・クイーン「ガラスの村」(ハヤカワ文庫)

 ここに書かれた民主主義については評価が難しいなあ。外界と途絶し、没落している村落。しかし、そこには開拓時代の自主独立の民主主義政治が営まれている。形式的には彼らのやり方は正しい。ただし、そこにある種の偏見、ドクサ、思い込みがなければ。村の重要人物が殺害される。そこには、異邦人が来ていた。共同体の論理でいうと、村の中に犯罪者はいない、だから異邦人はそうであるという理由だけで罪人とされる、それを民主主義の手続きで処罰しよう。ここまでは、形式的には理想的なあり方。たぶんこの国ではそのような手続きは執行されない。共同体のリーダーの密室の協議で彼は処罰され、それに異議を唱えることは難しいだろう。金田一探偵の対峙する村はこういうものだった。そこには一般意思はない。形式的に棚上げされた権力がすべてを決定するだろう。でも、この民主主義の実験場であるアメリカではそのようにはならず、誰もが自分の意思で罪人を処罰することができる。
 そうではない、犯罪者と目されたものであっても、人権は擁護されなければならない、法廷は法に基づいて運営されなければならない。それは共同体の論理、一般意思に抗する別の論理に立たなければならない。それは共同体の外の、インターナショナルな意思を貫徹することである、という考えに立つ立場もある。この小説のクィーンはその立場に立つ。そのとき、部分的に法を逸脱する行為も正当であることになる。難しいなあ。考え方の難しさではなく、自分の立ち居地をどこに置くか、それによる自分の不利益をどこまで甘受できるか、そういう倫理の難しさ。ここでは、マッカシーイズム全盛の時代で、倫理や正義を追求することの困難さが描かれている。幸いここでは論理や合理性が勝利を収めたけれど、それがどこでも実現しうるかは疑問なことだ。民主主義を貫徹しようとするアメリカでさえ困難なのだから、ましてこの国では。

ニュー・イングランドの小さな村、<シンの辻>で画家である老婆が何者かに撲殺された。容疑者として逮捕されたのはよそ者の浮浪者であったが、男は金を盗んだ事実は認めたが殺人については否認する。
 しかし、<シンの辻>の人々は、彼が犯人に違いないと考え、司直の手に委ねずに自分たちで裁きを下そうとする。事態が法の枠外で処理されることを恐れた老判事ルイス・シンは従弟のジョニーらと協力し、臨時の特別裁判を開催する一方で、真犯人を見つけ出そうと調査を開始する。
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 事件は単純。村の唯一の著名人が殺害される。事件のあった時刻に異邦人が目撃され、容疑は彼に集中する。村人にはアリバイがある。異邦人以外に容疑者のいない状況で、だれが犯人であるのか。手がかりは、紛失したたきぎ、入れ替えられた油絵(被害者は画家)、紛失した車。それだけの情報から何が推測できるのか。ストーリーの大部分は模擬裁判。そのために前半の各人の行動の疑わしさが意識の外に出る。このあたりの記述はうまいなあ。
 主人公は、クィーンではなく、退役した軍人。彼は第2次大戦と朝鮮戦争に従軍し、すっかり消耗している。世の中の出来事に興味を失い、人生の意義に関心をもっていない。彼の持っていたのは、容疑者への共感、それも観念的なもののみ(容疑者はポーランドの出で、ナチスによって家族を失い、共産主義国家によって職業を失い、亡命してきた。言葉のハンディでアメリカ社会に受け入れられない)。多分彼の殺してきた人への共感が根底にあったのかしら(「フォックス家の殺人」の主人公やノーマン・メイラー「鹿の園」の主人公に似ている)。クィーンの思想というか社会認識は保守的なのだが、これは特別なものなのかしら(代作らしいのだけれど)。1954年作。