odd_hatchの読書ノート

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エラリー・クイーン「帝王死す」(ハヤカワ文庫)

第二次大戦当時の機密島を買取り、私設の陸海空軍を持つベンディゴ帝国に君臨する軍需工業界の怪物キング・ベンディゴーー彼の許に舞い込んだ脅迫状の調査を求められ、クイーン父子は突然ニューヨークから拉致された。その強引なやり方と島の奇妙な雰囲気にとまどいながらも、エラリイはついに意外な犯人をつきとめた。しかし次の瞬間、父子の眼前で不可解な密室殺人が・・・・・・冒険小説風に展開する奇抜な不可能犯罪の謎!(本書裏表紙あらすじより

 見かけにだまされてしまいそうだな。サマリのように、エラリー親子はまるでギャング映画のようにいきなり屈強な男たちに拉致・監禁されてしまう。自分はジェームズ・ギャグニーとかピーター・ローレあたりの顔を思い浮かべたよ。行き先は個人がアメリカから買い取った孤島で、そこには私設警察というか軍隊があって、自由な出入りはできないようになっている。島の主人はエラリーたちを快くおもってはいない。それなんて「007」とか、それなんて「男組」の軍艦島とか、それなんて「カリオストロ公爵の館」といいたくなる。が、脅迫状が連続して届いていることにおびえているのだ。彼が閉じこもる予定の部屋は、周囲を警備されている(ご丁寧にも厚さ数十センチのコンクリートで囲まれ、窓はなく、空調完備という念の要りよう)。殺人予告の時刻通りに、島の主人は銃撃され、重態になるのだった。私設警察はあっても、科学捜査のできる組織はないので、クィーン警視親子は委任された権限を持って捜査することになる。私設軍隊を向こうにまわして。以上のように、今では陳腐としか思えない設定。書かれた年代をみれば、こちらのほうがその種の設定の起源に当たるのだが。
 少し視点を変えてみよう。この島はペンディゴ兄弟が設立した企業が完全に管理している。まあ、私設軍隊その他の連中は兄弟と個人的な契約を結んで、企業に累の及ぼさないように注意しているだろう。重要なことは、この島は外界と完全に遮断されていること。いったん契約したら解約して島を出ることは不可能だし、この島では法はないかわりに兄弟たち支配者の命令が全員の行動を縛り付けている。彼らはたくさんの警備員に囲まれ(そうしないといけないのは、原子力か何かの研究をひそかに行っているかららしい。また各国の要員が商談でしばしば訪れるというのも理由にある)、監視された状態にある。そのことをかれらは不自由とはおもっていない。この設定をすでに読んだことがある。そう「第八の日」。
 「帝王死す」のペンディゴ島というのは、まったくそのまま「第八の日」の集落なのだ。「帝王死す」は1952年で「第八の日」は1964年初出だが、自分の読んだ順番がさかさまなのでしかたがない。あっちでは宗教的な共同規範がしばっているのだとすれば、こちらは資本主義における労働契約が人びとを縛っている。そこに狂信的な独裁者ないし良心的で善意の全体主義者が統治しているというわけだ。どちらも法とか一般意思も通用しない。そのような場所で、理性はどこまで正義を通すことができるのか、というのが問題になっている。ふたつのきわめてよく似たミステリで、探偵エラリーは事件の真相を見極めることはできるし、そのことを真犯人に告知することができる。しかし、真相とか実証された事実はこれらの<帝国>をゆるがせることはできない。どちらの場合でも、真犯人は事件の責任をとるどころか、罪を感じる気配さえない。それは、彼らのいる場所が読者のいる国家(資本=ネーション=ステート)とは全然別のところだから(極端な話をすれば、ナチスの作ったゲットーや共産主義諸国の収容所で、管理者や監視人の犯した犯罪を囚人が告発して裁判できるか、ということになるかな)。とりあえずクィーンはどちらの場合でも挫折する。事件はそれまでの独裁者や全体主義者をどかすことになったが、その後継者がより「よい」社会を作るとは思えない。また読者のいる世界ではクーデターによってより強固な警察国家・監視国家ができるということを知っているから。以上、少し観念的な感想を書いておく。
 では表層のミステリの評価。こういうゴーメンガースト城のような閉鎖世界に閉じ込められると、よほど面白いエピソードを持ってこないと興味は薄れる。途中、ペンディゴ兄弟の出生と養育の歴史を調べるために、なつかしのライツヴィルを訪れるのが、少し雰囲気を代えたくらい。それ以外はどうにも単調で、退屈だった。ペンディゴ島がカフカの「城」を模しているとすれば、この退屈さもカフカの模倣であるかも。まあ、書かれた時代にはゴダールの「アルファビル」も、ウルトラセブンの「第四惑星の悪夢」もなかったから、機械的監視社会でのエピソードの作り方が不十分だったとはいえる。
 あとは壮大な仕掛けの舞台であるにもかかわらず、事件の動機は例によって家族のいさかいにある。そこはロス・マクドナルドの世界の反映。兄弟間の憎愛というのはライツヴィルもの以来の伝統というか主題であるので、類型的な人物しかいないわりには(ペンディゴ兄弟とキングの妻のなんとつまらない造形であることか)、明るみに出た真実というか恨みの深さはいささかおどろおどろしく恐ろしかった。あとこの兄弟は聖書にでてくる名前を持っていて、事件の解決には無関係だけど、その意味を知っているものにはどんな社会的な抑圧が彼らに加わったかに戦慄するとおもう。普通つけないような呪われた名前を子供につけるのだから。カイン=弟殺し、ジュダ=裏切り者、アベル=殺される者。
 あとは事件の真相のしくみというか、発想というか、正確に記載しようとするとネタばれになるので、こんな言い方しかできないのだが、そういうのがたとえば「悪の起源」「盤面の敵」あたりに反映している(「悪の起源」は「帝王死す」より先だが)。というわけで、1952年に書かれたこの作品のモチーフはのちのクィーンの作品に転用されたものがたくさんある。見かけ以上に読み取りのしがいのある作品だった。とはいえ、単体としてはものたりない。
 作中、次男が酒によってエラリーにレコードを掛けさせる。それがモーツァルト交響曲第41番「ジュピター」で、アンセルメ指揮スイス・ロマンド管の演奏。そんな録音があるの?とネットで検索したら1942年の録音があるとのこと。知らなかった。アンセルメモーツァルトねえ、と思っていたら、1952年当時はワルタートスカニーニベームザンデルリンククナッパーツブッシュくらい。この中だとたしかにアンセルメだな。