odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

川端香男里「ユートピアの幻想」(講談社学術文庫) 現実が十分に満足することができないとき、ユートピアを実現しようとする構想は政治的な力にもなりうる

 「ユートピア」関連書籍。以下を書いたのは「太陽の都」「ダフニスとクロエ―」「潮騒」を書くもっと前のことです。

 20代のころ、自前のユートピア文学史を構想したことがあった。そしてモア「ユートピア」、カンパネルラ「太陽の都」バトラー「エレホン」モリス「ユートピアだより」ハックスレー「すばらしい新世界」オーウェル「1984年」、ザチャーミン「われら」、バージェス「1985年」などを読みふけった。国産のユートピア小説としては1980年代初頭に井上ひさし吉里吉里人」、大江健三郎「同時代ゲーム」筒井康隆「虚航船団」、原秀雄「日没国物語」が相次いで出版されたときは印象深い出来事だった。また、この原著が書かれた1970年は、未来論が盛んな時期だった。未来論は現在でも読まれるべき1冊の本も残していないが、その影響下で五島勉ノストラダムスの大予言」や小松左京日本沈没」をアンチユートピア小説として書かせた。
 この本を読んでみると、この程度のことでユートピア文学史を構想することはおこがましい行為であると判明する。すなわちプラトン「国家」から出発して原著出版の1970年までに500冊になんなんとする小説あるいは哲学、経済学の本が書かれていて、さらにはそれらを論考する書物、論文もとんでもない数に上るのだ。しかも大半は訳出されていないので、複数の外国語を駆使できるようにならなければならない。またここでは西欧の小説、思想に事を限っているので、「ユートピア」と呼称できないかもしれないが、桃源郷以来の伝統のあるアジア思想の系譜も検討するとなると、これは一人の力を超えている。
 結局、自分の構想は潰えてしまったのだが(別に誰かの損失ではない)、ユートピアという考えや呼称はわれわれの知的興味をいたく刺激する。ここではないどこか、そこにある理想の暮らしや社会、このような想像力はとても面白いのだ。そして現実が十分に満足することができないとき、ユートピアを実現しようとする構想は政治的な力にもなりうる。19世紀のロマン派芸術活動や革命運動がいかにユートピア的な想像力にささえられてきたことか。
 あいにく現代では、マルクスとオウムのおかげでユートピアという言葉や想像力は、蔑まれるか恐怖をもたらすものになっている。しかし、この本に記載されたように、少なくとも2000年以上にわたり人はユートピアを構想することをやめなかったし、現実が満足に生きづらい状況である限り、「ユートピア」はわれわれを魅了する力を持っているはずだ。(ところが、「ユートピア」を地上に実現しようとする運動が、おしなべて権威主義的組織を持ち、排外的な運営になり、他者を抑圧することになるのはいったいどうしたわけかしら。)