巨匠会心の第6作! 世界推理文壇の寵児となった作者が、〈コスモポリタン〉誌のたび重なる要請に応えて連載した本書は、果然ヴァン・ダイン・ファンの期待にたがわぬ傑作となった。古代中国陶器と犬についてのペダントリーに彩られた殺人事件は、それらの要素がクロスワード・パズルのように関連しあい、正しい解決へと導いていく。
ケンネル殺人事件 S・S・ヴァン・ダイン全集6 - S・S・ヴァン・ダイン/井上勇 訳|東京創元社
●ヴァン・ダインの注目ポイント。
1.ヴァン・ダインはアメリカ・ミステリ中興の祖
探偵小説のフォーマットはアメリカの作家ポーの創案になるものとはいえ、実作はイギリス・フランスに移動する。それから半世紀あまりはアメリカでは注目するべき作家は生まれなかった。その一方で、雑誌等でエンターテイメントの人気があったが、アメリカでは輸入すること、あるいは程度の低い自国作品で対応していた。そのような状態で、アメリカ人による創作作品で、かつハイブロウな作品がヴァン・ダインによってもたらされた。「ベンスン殺人事件」の成功のひとつはここにある。
2.ファイロ・ヴァンスのライフスタイルは、アメリカ・バブル時代のモデル
1920年代はバブルの時代。株価高騰と企業の成長によって、成金の大量発生した時代。ファイロ・ヴァンスは、高級アパートメントに豪奢品を備え、一流レストランで食事をし、カーネギーホールに通う。高価な衣装を見につけ、知的な会話も欠かさない。この主人公は、読者の現在のひとつないしふたつ上のライフスタイルを謳歌している。読者の羨望を受ける主人公であったはずだ。
(1930年代に登場する作家は、これほどハイブロウなライフスタイルを書かなかった。クイーンの主人公はホワイトカラーの普通の状態と一緒、ハメットではブルーカラー、アイリッシュでは失業者/青年になる。それはそれで、30年代の世界的な不況を反映している。)
3.ヴァン・ダインは、ミステリーの形式をより純化した
それまでのミステリーにあった冒険・伝奇・アクション・ラブロマンス・ホラーの要素を取り除き、謎解きに純化するものにした。序盤の不可思議な謎の提示、中盤の捜査、終盤の解決という形式を確立した。
その結果、物語の時間は「現在」にほぼ限定される(章立ての日付・時刻・場所の表示に注意)。その時間も直線的に進む。複数の物語が独立して併走したりすることはなく、「閑話休題、お話変わって」という時間の遡行は発生しない。登場人物の過去をことさら重要なものとしてお話しすることもない。動機についても、遺産相続・金銭のもつれ・恋愛憎悪のように現在の理由による。
4.舞台がきわめて限定。
ほとんどの作品で事件は、ひとつの屋敷・建物の中で起こる。「ケンネル殺人事件」ではヴァンスの自宅と舞台になった建物の2箇所だけが描写される。これは章立ての表記のように『舞台劇」を基本に作られているからだろう。このような閉塞空間を舞台にしているからこそ発生する狂気があることを予感させる。成功している「グリーン家」『僧正」の閉塞感はみごとなもの。
(野外にでていく珍しい例外は「グリーン家」のカーチェイスシーン。また駄作とされる「ガーデン」ではひとつの建物どころか、ワンフロアに限定。ヴァンスの自宅も出てこないため、密室劇と化していて、これは当時としては珍しい実験ではないかしら。)
●このような純化された小説形式では「人物がかけていない」「あやつり人形」という批判はまったくあてはまらず、形式優先の物語では必然的に人物は人形たちになってしまうのだ。この形式をさらに蒸留純化したのがエラリー・クイーン。ただ、形式化を推し進めていくと、いくつかのパターンに収斂することになり、なにも語れなくなる/語ることがなくなるだろう。ヴァン・ダインは急速につまらなくなり、クイーンは形式化を止めて別の過剰なものをミステリーに付加していった。このような進み方に、「論理哲学論考」から「哲学探究」に移動していったヴィトゲンシュタインを思い浮かべる。
以上の感想のスタイルが普段と違うのは、昔書いたものだから。大風呂敷の広げ方が笑える。
「ケンネル殺人事件」は戦前に映画化されている。映画で犯人当てをするのはむりがあるなあとか、ヴァンス役の俳優に魅力なしとかの評をどこかで読んだはずだが、思い出せない。植草甚一「ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう」(双葉文庫)だったかもしれない。