odd_hatchの読書ノート

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高辻知義「ワーグナー」(岩波新書)

作曲家としては勿論のこと、劇作家、思想家、美学者として、ワーグナーほど多彩な役割を演じた音楽家は他に例を見ない。同時に、ワーグナーほど毀誉褒貶の振幅の激しい作曲家もいない。稀代の風雲児の複雑に織りなされた生涯を底流するものは何であったか?創作の軌跡、出生の謎、女性問題、対ユダヤ人観、政治との関り、経済問題など、さまざまな面から大芸術家の実像に迫る
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 1986年刊。1980年代は、この国のワーグナー上演にとってメルクマールとなるできごとがいくつもあった。詳細は堀内修「ワーグナー」に記しておいた。ワーグナーのような大規模なオペラの上演が増えたことにはいろいろ理由があるだろう。演奏家のレベルがあがったとか、上演に金を出す企業があったこととか、ワーグナーに興味を持つ観客が増えてきたとか、ワーグナーを上演できる劇場が増えたとか。
 この本ではワーグナー反ユダヤ主義に関する議論に多くのページを割かれている。それまでのワーグナー紹介本では、楽劇の内容紹介に、主にバイロイト音楽祭での新奇な演出についてであり、クナッパーツブッシュフルトヴェングラーからショルティ・ブレーズにいたる演奏家や歌手の話題くらいであった。せいぜいのところ上演の記録にふれてのワーグナーの分析くらいまで。専門家ではなく素人やディレッタントが入手できるものに限ってということで。そのような状況に一石を投じたのが清水多吉「ヴァーグナー家の人々」(中公新書)で、ナチス時代と戦後にいかにワーグナー家がかかわってきたか、それを払しょくするために孫たちはどのように対処したかが描かれた。ここではまだリヒャルトまでの批判には至らなかったが、ここにおいて反ユダヤ主義というワグネリアンは触れたがらないと思われる話題を提供している。まあ、新書サイズの分量なので紹介程度なのは仕方がない。
 この国の論壇(というのが1980年代にあったかどうかはしらないが)、1980年代にハイデガーナチス関与についていくつかの議論があった。もとは1960年代後半にファリアス「ハイデガーとナチズム」が出版されたのがきっかけだが、それがこの国に来たのは1980年代だった。あるいはヴァルトハイム元国連事務総長ナチス関与がかれのオーストリア大統領選出馬時に暴露され問題になった。こんな情勢が本書の背景になっているのかもしれない。
 さて、ワーグナーについての個人的な感情(考えというほど熟成されていないので)は、人柄や文章にはとうてい好感を持つことはできないが、作られた音楽に陶酔される。そして彼の音楽に感情が振り回されることに、なんとも言えない気分の悪さを持つことがある。