odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

イタロ・カルヴィーノ「マルコ・ポーロの見えない都市」(河出書房新社)

 昔書いた文章を発掘したので収録。2001年5月にどこかのサイトにアップしたもの。会員承認制だったと思う。検索しても見当たらないので再録します。
 久しぶりのイタロ・カルヴィーノ。マルコ・ポーロフビライ汗に過去訪問した都市の話をするというもの。物語られる都市すべて架空です。したがって、まず最初に我々は過去物語られた書物の中の架空都市を思い出す。「ユートピア」「太陽の都」「ラピュタ」、エレホンの都市、「1984年」の都市等々(既読のもの限定だが、後に本文にもっと大量のリストが出ていた〉。また、架空の都市の物語ということでは、ボルヘスも同様に思い出す。「エル・アレフ」「伝奇集」などの架空都市、図書館を想起せよ。とりわけ『汚辱の世界史』所収の「学問の厳密さについて」を。これは1分の1の地図を作ることに情熱をかけた帝国の話。なお、この話にインスバイアされたのか、ウンベルト・エーコが『文体演習』所収の短編『帝国』において1分の1の地図を作る方法を検討している。エーコのやり方は、カルヴィーノが短編集『柔らかい月』で試した方法を踏襲している。という具合に、ポルヘス、カルヴィーノエーコと続く都市と文学の方法をめぐる文学史を夢想したのだが、どういうものなのか。

 今回は感想ではなく、下手なパロディをひとつ。

「好きな作者を三人述べよとの仰せにございますが、なかなか難しゅうございます。なんとなれば、私も王様と同じく無類の読書好きでございますから。私は数千人の作者の文章を読んでまいりましたが、この世界の過去と現在の、あらゆる言語でかかれた作者の十分の一も知りますまい。そのような惨めな私の経験でわずか三人の賢人を選ぶことなどできましょうか。それでも試みましょう。

 まず私の心を奪う作者は、作者不詳の書物を書いた無名の作者たちでございます。本を書くということは多かれ少なかれ、自己顕示欲を満足するためのものでございます。作者が盗人であっても、たまたま優れた詩文を物していたために今に名を残す者もおりました。それほど左様に作者が死した後にも名を残したいという欲望は、物書きにありますものです。しかしながら作者不詳であることをあらかじめ予定していた物書きも小数ながらありました。生きながらしてすでに無名であることを納得しておったこれら作者たちの心根を思いますとき、私は彼らを愛さずにはいられないのです。

 多くの書物には題名と同じく作者の名前が記されております。実のところ、書物の背表紙を読み、作者の名前を知ると、およそ書物の中にどのようなことが書かれているか、読者は想定できるのでございます。多くの書物を読んだことのあるものほど、題名となにより作者名から内容を想像することはたやすくなるのでございます。ですから、多くの本を読んだ物ほど実は読書の幅が狭くなっているのではないかと思われます。
 従いまして私は、かの幼児のころの体験を懐かしく思うと同時に、それこそが読書の真の体験ではないかと思うのです。すなわち、題名や作者名に惑わされることなく、いやあらゆる予断を持つことなく、タブラ・ラサの状態で書物に向かうというあの経験。
 ですから、私はその本を読み終えたあとにはじめて作者が明らかにされるような書物を夢想するのです。あるいは、読み終えた後にも作者がわからないという状態を。このような作者こそ、真の読書を経験させる理想的な作者ではないでしょうか。

 そして読書をすることは、すでに自分が知っていることを思い出すために行うものではないかとも考えることがございます。まったく何も知らなかったことを読書によって知ることはありえないのではないか。にもかかわらず書物を開き、そこに連ねられている文章を読むというのはなぜでございましょうか。
 それは、他人の目によってすでに私自身が知っていることを確認するためであり、それはすなわち私自身を読み解いていくことであるのです。ですから、私の好きな作者にぜひとも『私自身』をいれさせていただきたく存じます。」

 この3つの条件を満たす作者あるいは書物というのは存在する。ひとつは聖書。もうひとつは、『名無し』という同じハンドルネームで無数の作者が書き込むインターネットの匿名掲示板。
 長い割にはへたくそでした。おそまつさま。

<追記>
 最初に書き込んだサイトでは、自己紹介とあわせて好きな作者3人を述べよというアンケートがあった。たいていそこには、森ナントカ、京極カントカ、赤川だれそれなんて書いてあったので、上のようなはぐらかしを試してみたのでした。