世界の思想家・文学者・科学者・芸術家・宗教家など、著者の琴線に触れた142人を描写したエッセイ。2割の人は作品を読んだか見たかしていて、6割は名前を知っているだけで、2割は始めて知った人。自分の興味にフォーカスを当てると、登場する音楽家は、バッハ・ドビュッシー・シェーンベルクの3名のみ。モーツァルトとベートーヴェン、ワーグナーが入らなのはなぜだろうかなあ、と思うと、著者の趣味とか関心のあるところがいわゆるクラシックオタクとはちょっと異なるところにあるのだなあ、と思った。
これを書くためにいったい何冊の本を読んだのだろう。浅田彰氏はたしか「ヘルメスの音楽」だか「逃走論」(どちらも筑摩書房)で、一冊の本を書くのに300冊必要と言っていたから、これだとどのくらいになるのかしら。作中には、貧乏なころに図書館通いをして本を読んでいたという話があり、なるほどマルクスに似た体験を持っているのだなあと思った。
重要なことは、この作品が31歳で書かれていること。浅田彰氏の「構造と力」と一緒で、著者が非常に若くして、このような博物学的・怪物的知識を持って「書いた」ということに驚く。40歳を過ぎてこのようなエッセイを書いてもさして驚くにはあたらない。早熟であること、にもかかわらず非常に博識であることに驚くのだ(この雑誌「遊」の周辺にいた人たちも博学多彩であるが、その中に荒俣宏氏がいることも驚きのひとつ。荒俣宏氏のマンガに関するエッセイに「まりの・るうにい」をほめる文章があったけど、著者の連れ合いなのね)。
著者の「共振」や「遊学」はおそらく誤解されていたと思う。「遊」の語意から受動的・受信的なあり方を思わせるが、じつのところは進んで異分野や境界にいくことが重要なのであって、いくつもの触手に引っかかったことを無媒介に結びつかせることが本意であるはずで、とても積極的・発信的な智のあり方なのだろう。間違っても「誰かと共振したい」という言い方をしてはならない。
これは著者の「遊学」の結果の棚卸であって、読者のものではない。非常に有益なアトラスを作ってくれたのだ、ということだ。結局のところは、興味を覚えた人については原典や研究書を続けて読まなければならないという平凡な感想と、実践への意欲が生まれた。科学者について何人か興味ある人が生まれたので、いずれそこに「遊」びにいくことがあるだろう。
(と7年前に書いたのだが、「興味ある人」はいったいだれだっけ? 手元にはもうないしなあ。)