島田荘司は、ミステリーをリアルとファンタジーの軸、それに直行する論理と情動の軸にわけて、過去の名作をプロットする。彼によると、「本格」というのは論理の軸をつきつめたところで、かつリアルかファンタジーの趣に富んだものであるという。リアルで論理的なものを本格推理といって、松本清張以後の日本の探偵小説はここを根城にしてきた。一方、ファンタジーで論理的なものは本格ミステリーと呼ぶべきであり、その名作は横溝と小栗くらいしかない。ここはだれも耕していないから、新本格の新人よ、ここを耕しなさい、というのが彼の主張。文学を科学するのは夏目漱石や吉本隆明の悲願であるが、成功例は少ない。社会学と統計学を装っているが、形式を徹底しているわけではないので、科学ではない。
こういう不備な議論であるのに辟易すると同時に、気に入らなかったのは本格推理の傑作に高木彬光「邪馬台国の秘密」「成吉思汗の秘密」が入っていたこと。これはニセ歴史学の典型例じゃん。これを「リアル」なものであるというのは間違っている。問題なのは、「邪馬台国」の秘密はいくつかの書籍とそれの周辺の事柄だけで解決できるという前提をとっていること。魏志倭人伝に記載されたことを無矛盾で解釈できるのであれば、それは真実であるというのだ。それは学問のやり方では誤っているのであって、問題を解く事実は閉じた系にあるわけではない。「邪馬台国」を説明するには、当時の中国の政治からはじまって、考古学的な知見までを網羅する必要がある。なにかの仮説を提唱するのであれば、すでに定説になっている知見と矛盾がなく、合理的に説明できるものでなければならない。そういう開いた系(ポパーの世界3に相当するのかな)で説明され、検証されないといけない。そういう「問題」を安易な扱い方で取り上げたものを、「リアルな本格推理」と呼ぶのは、危険であるのではないかな。著者が本気になっているぶん、ニセ歴史学に流れてしまわないかい。過去の自分はこれを読んで古田武彦とか梅原猛とかの古代史「研究」書をあさり、一時期は超古代文字やら古史古伝に行きかけたぞ。
(エンターテイメントだからめくじらたてなくてもいいんじゃない、とも自分でも思うのでが、では五島勉「ノストラダムスの大予言」と高木彬光「邪馬台国の秘密」「成吉思汗の秘密」の差異って何よ、というとうまく答えられなくて、上のような厳しめな見方をしてしまう)
そんな風に考えていると、リアルとファンタジーは軸としてはちょっと違う。エンターテイメントの中でリアルとファンタジーは明確に分けられるのではないのだ。「ドグラ・マグラ」で主人公の意識はファンタジーみたいだけど、ある種の疾患の人にはリアルだろうし、九州帝国大学医学部の開放病棟はファンタジーだが、あってもおかしくないリアルさを持っている。「虚無への供物」のファンタジー世界に「洞爺丸事件」が侵入してくるといきなりリアルになる。まあ「黒死館」は建物も登場人物も論理(のごときもの)も「リアル」ではないわな。
となると、軸は実証主義と合理主義になるのか。前者は読者の現実世界と地続きになっていて、読者の現実世界のルールがそのまま成立しなければならないところ。物理法則、モラル、そういうことも現実世界に地続きになっている。後者は、ある前提を立てたらその枠の中での合理性が貫徹していることが必要なところ。現実の物理法則や歴史などと齟齬していてもかまわない。でも設定した枠の中では、整合性が取れていて、論理に誤りがないことが要求される。そんな風に考えると、島田の地図と違って、松本清張と横溝正史の金田一ものは同じ世界にいて、江戸川乱歩と小栗虫太郎と高木彬光「邪馬台国の秘密」「成吉思汗の秘密」は後者のところにいることになる。
もうひとつは対談に登場する綾辻がいうように、統計学的な手法を使えないこと。軸のふたつが数値化されない観念だからね。元から無理な技法であったのだ。ミステリを「科学する」試み、というか数値化して評価する技法としてクイーンが似たようなことを考えていたな。プロット、サスペンス、意外な解決、解決の分析、文体、性格描写、舞台、殺人方法、手がかり、フェアプレイ。以上の10個の項目を10点満点で評価し、合計点数で過去の名作を位置づけようとする試み。ちなみに最高点はポー「モルグ街の殺人」86点で、あとは「グリーン家殺人事件」79点、「アクロイド殺し」79点、「矢の家」74点、「トレント最後の事件」72点なんかが後に続く(九鬼紫郎「探偵小説百科」金園社)。古いのしか取り上げられていないので他の作で遊んで見るのも面白いかも。まあ、これも「作家100人に聞きました」みたいなアンケートの集計以上のものにはなっていない。ことほどかように文学を科学するのはむずかしい。でも、アドルノは「音楽社会学序説」で聴取者を段階評価していて、そのカテゴリーと基準は恣意的であることをアドルノが認めているのに、いまでも時々引用されるのはなぜ? 大学教授であるかとか、他の人によって重要な思想家と評価されているからとかの別の権威があるせいかしら。「島田荘司」はそこまでの権威ではない(と自分がみなしている)からかねえ。
こんなところで、どーすか?
テオドール・アドルノ「音楽社会学序説」(平凡社ライブラリ) 全体主義と文化産業が主導する音楽の有り方の批判。 - odd_hatchの読書ノート
<追記 2011/11/4>
こんな軸もあるのではないかと妄想してみた。
1.国鉄の時刻表の抜粋が掲載され小説世界と現実世界が地続きになっているもの(松本清張「点と線」など)から、小説内部だけで有効な特殊設定で合理的な解決を目指す(アシモフ「はだかの太陽」やギャレット「魔術師」シリーズなど)ものまで。
2.現実世界の犯罪を取り上げ登場人物は実在の人物で会話も聞取り調査のままな犯罪実録(カポーティ「冷血」)から、人形が観念的な会話を棒読しぎこちない活動をするフィクショナルなもの(小栗虫太郎「黒死館殺人事件」)まで。
3.言葉の示すものはただ一つであいまいさはまったく無くパズルのように解決可能なもの(ケメルマン「九マイルは遠すぎる」、ホック「怪盗ニック」シリーズ、ソボル「二分間ミステリー」など)から、言葉の多義性を駆使したり不親切な語り手に曖昧な記述をさせたり複数の人称や語り手を登場させて読み手の混乱を誘う言葉のマジックを使ったもの(いろいろあるので取り上げない)まで。
4.楽器がなくなった、本が紛失したという日常の謎解き(「しゃべくり探偵」など)から、国家的犯罪、哲学思想との格闘までの形状上的な謎を扱うまで(笠井潔「哲学者の密室」など)。
いずれも科学的な分析には使えないな。後、これらの軸が交差するゼロ地点というかゼロ度の作品というのはありうるかといういささか形而上的な疑問もわく。まあたぶんこれらの恣意的な軸が交差する1点が存在するというのも観念であって実証されていないし、実証されもしないだろう。実のところはいずれの軸も交差していないということだってありうるわけで。まあ、頭の体操でしたな。