いまでこそサイコ・サスペンス、サイコ・ホラーというくくりで、異常犯罪者を題材にする小説がたくさんあり、書店の一角にはこの種のものに加え犯罪実録ものが多数置かれている。ブームの走りはトマス・ハリス「レッド・ドラゴン」とスティーヴン・キング「ミザリー」あたりと思うが、1970年代ではブロック「サイコ(所有するポケミス版のタイトルは別)」とカポーティ「冷血」くらいだった(「シャロン・テート」事件を起こしたマンソン・ファミリーの実録も加わるかな)。
それらに興味を持っていると、必然的に現代教養文庫の牧逸馬「世界怪奇実話」全4巻に目を留めることになる。気になってしかたがなかったが、ついに購入しないままでいるうちに店頭から消え、出版社も消えてしまった。だから、この編集版を手に入れたときには、懐かしさと隠微な快感を得たものだ。
編集版なので、現代教養文庫の半分くらいしか収録されていないのだが、とりわけ興味深い話がまとめてられているので、充分といえる。現代においてはほとんどの事件が別の本で語られていて、常識の範疇にはいるものではあるにしても(切り裂きジャックなど)、昭和の最初の10年間ではショッキングであったのだろう。収録されているのは、次の通り。
●切り裂きジャック――死体を料理する男
●ハノーヴァーの人肉売り事件――肉屋に化けた人鬼
●マリー・セレスト号――海妖
●タイタニック号沈没――運命のSOS
●マタ・ハリ――戦場を駆る女怪
●テネシー州・猿裁判――白日の幽霊
●ローモン街の自殺ホテル
●双面獣
●クリッペン事件――血の三角形
●ウンベルト夫人の財産
●女王蜘蛛
●ドクター・ノースカット事件――土から手が
●ブダペストの大量女殺し――生きている戦死者
●浴槽の花嫁
西洋の怪奇・猟奇・残虐・痴情の事件に、当時のモダンな読み手は飛びついたわけだが、日本人にイエローペーパーのゴシップを嫌う風潮や特長があったわけではない。1920年代には雑誌「新青年」に代表されるようなところで、エロ・グロ・ナンセンスの読み物や見世物小屋があったわけだし、それ以前の明治の新聞では政界人のゴシップを披露していたし。題材が国内に限られていただけで、日本人の地はさほど変わっていない。と考えると、この諸作も江戸川乱歩や小酒井不木その他の小説とそれほど大きな隔たりはないところで書かれている。あと、戦前の英米の探偵小説にはこれらの事件を題材にしたものや、事件の引用があったりするのが多いので、事件を知っておくとよいです。あいにく自分のキャベツ頭にはこの小説はこの事件という記録は残っていません。あしからず。
2004/5/4
作者がこの作によって名を残すことになったのは、当然。青空文庫でいくつか読める。作家別作品リスト:牧 逸馬
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この光文社文庫版「世界怪奇実話」に不満があるとすれば、現代教養文庫には収録されていた多くの写真がすべて削られていたこと。現代教養文庫版を立ち読みしていた記憶を探れば、タイタニック号の出航風景、マタ・ハリの身分証写真、多くの殺人事件の現場や犯人、被害者のそれがあったはずだった。それらを見ることによって、読者は作品が「実話」であることを納得し、かつそのような凄惨な事態に直面することのない自分の幸運を祝っていたはずだ。「実話」のリアリティは多くの場合、写真によって補完される。というか空飛ぶ円盤や恐竜の実在を証拠だてるものは、唯一写真でしかない。
写真はわれわれに「リアリティ」を感じさせるのであるが、同時に被写体とわれわれの間の関係で奇妙な感じをもたらす。すなわち、写真に写っている人物は誰もが「死んでいる」ことを意識させられるのだ。被写体の人物がわれわれにとって「死んだ」状態にあることを指摘したのは、多木浩二氏だったか、ロラン・バルトだったかはっきりしないのだが(後者の「明るい部屋」みすず書房だった)、頭に引っかかっている。最近、柄谷行人「倫理21」(太田出版)を読んだが、そこに興味深いことが書いてあって、われわれにとって昔の人と過去の人だけが「他者」だ、それは今生きているわれわれと彼らとの間には、一方通行の関係しかありえないからだということ。今、生きている人同士では必ず両方の間に関係が成立できる、たとえ互いに言語を理解しないとしても。しかし、昔の人(すでに死んだ人)と未来の人(これから生まれる人)の間には、今の人からの一方的な関係だけがあって、彼らからリアクションが返ってくることはない。著者はそこから倫理のあり方を検討するがそこは割愛。
このような一方通行的な関係を端的に表しているのが、「写真」であるのではないかと思う。そこに写っているのはたしかにわれわれの知っているひとではあるが、今も生きているひとではあるが、彼らは今の私からの問いかけには決して応えない。私はモノローグだけしかできなくて、ダイアローグはできない。ダイアローグのような応答を被写体から受けるかも知れないが、それはこちら側の私が変わったから作り出したダイアオーグにみせかけたモノローグなのだ。
この関係は写真だけに特別あるものではなく、文章でもそのようにいえるかもしれない。多くの人はいう。小説やその他の文章を読んで、作者と対話を交わしなさいと。しかし、「作者」という他者は決してこちらからの問いかけに返答しない。同じ文章がそこにあるのだ。「作者」からの対話と思われることは、私の仮構したダイアローグ(のごときもの)。
2004/5/5