後にはノーベル賞を受賞し、1980年代のスペースシャトル爆発事故の調査委員会の委員長を務めるなど、学問の枠には収まらない奔放な生き方が魅力的な人だった。多芸多趣味な人らしく、自伝を書くことには興味を持たなかったようだが、ボンゴを鳴らすことで知り合った高校生が著者の話を聞き書きした。それを著者が目を通してOKを出しているので著者名にファインマンの名が入った。
とはいうものの、学問に関する話はほとんどなくて、彼がどのようなことに興味を持ってきたかに多くのページが費やされている。たとえば、子供のころのラジオ製作であったり、高校時代に自分で勝手に微積分を勉強していつのまにか大学専門課程まで進んでしまったり、学生時代に勝手に生物学研究室に入り浸って今の生物物理学を構想したり、催眠術実験に参加したり、金庫破りであったり、無刺激ベッドに入っての瞑想実験であったり。自分でつづった文章ではなくて、一人のジャーナリストが間に入ることによって、傲慢も卑下も自己讃美もてらいもない、率直な話になっている。そこから浮かび上がるこの人の知的好奇心の幅には驚かされるのだ。
もっとも心に残っているのは、戦時中マンハッタン計画に参加したときの話。彼は複雑な計算を担当するセクションの責任者であった。周囲の数学に優秀な高校生を集め、初期の計算機(歯車式のもの)を使って複雑な計算をしていた。あるとき、彼が出張中に計算結果が間違っていて、再計算することになった。高校生たちが議論の真っ最中にいるなかにファインマンが戻る。高校生たちは「今は叱らないで僕たちにまかせてください」という。普通ならば、最初からやり直すところでそういう指示をだすつもりであったが、高校生たちは結果をだすプロセスをたどりなおすことによって、間違いの場所を発見した。再計算するよりも半分以下の時間で問題を解決することができた。それは、ファインマンが仕事の意義を高校生たちにしっかり説明したためで、彼らが仕事の意義を認め積極的に参加したからだった。普通の軍ではありえないことをした。
もうひとつは、同じ時期に妻を病気でなくしたときのこと。葬儀から半年、まったく泣くことがなかったのに、ショーウィンドーで美しいドレスをみて彼女に買ってあげたいと思って、なくなっている事に気づいたとき、とめどなく泣いてしまったという話。
面白かったのは、ファインマンは相当に優れた天才であるのだが、彼が高校生のとき(1930年代)が理論物理学がもっともホットな時代であって、最初の発見をするレースに参加できなかったこと。彼が10年早く生まれていれば、当時の物理学の成果のいくつかはファインマンのものになっていただろう(ニールス・ボーアとの交遊が書かれていた)。いつ、どこに生まれるかは自分でコントロールできないことであるので、「もし」をいっても仕方ないのだが。