odd_hatchの読書ノート

エントリーは2200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。

ウンベルト・エーコ「フーコーの振り子 上」(文芸春秋社)

ベルボが消えた。フロッピーディスクを残して。カゾボンがピラデという店で、ベルボと知り合ったのは 学生時代。カゾボンはテンプル騎士団について研究する学生、ベルボはガラモン社という出版社で働いて いた。ガラモン社にアルデンティ大佐という怪しげな男が現れたとき、ガゾボンはベルボ、ベルボの同僚 ディオタッレーヴィとともにその場に居合わせた。アルデンティ大佐は、テンプル騎士団について、 驚くべき秘密をつかみかけているというが、言っていることは少ない事実から導き出した飛躍しすぎな 推理ばかり。だが、アルデンティ大佐が翌日になって失踪したとき、すべてがおかしくなってきた。
『フーコーの振り子 上』ウンベルト・エーコ 藤村昌昭・訳 | 単行本 - 文藝春秋BOOKS

 これを読んで安心したのは、どこの国にもトンデモ歴史学陰謀論を手慰みにする連中というのはいるのだなあということ。そういう連中がいっぱいでてきて、しかも形式論理と連想法と怪しげな証拠と無理やりなこじつけをつかった思考法がこの国のトンデモ歴史学陰謀論を語る連中とそっくりで、これはこの分野のある種の教養をもっているものには爆笑できる。とはいえ、主題がテンプル騎士団で薔薇十字団でシオン修道会でとなると、この国の読者にはなじみがないので、これらに関する歴史とトンデモ解釈を読むのはたいへんではないかしら。とりわけ最初の100ページで紹介されるテンプル騎士団と十字軍遠征の説明を読むのは大変だろう。テンプル騎士団も登場して十字軍の歴史と影響をまとめた橋口倫介「十字軍騎士団」(講談社学術文庫)と読んでおくとよい。ヘルメス学も盛んに話題に出るので、村上陽一郎科学史の逆遠近法」(講談社学術文庫)でおさえておく。ジョン・リチャード・ヒックス「経済史の理論」(講談社学術文庫)は直接の記述はないけど、十字軍に参加した各種騎士団(テンプル騎士団は最大組織だったが、他にもいろいろあった)と教会の関係で為替制度ができたなど経済とのかかわりを知ることができる。あとは、キリスト教の歴史もしっておいたほうがよいので、小田垣雅也「キリスト教の歴史」(講談社学術文庫)がてごろ。この種のトンデモ歴史学の代表としてマイケル・ベイジェント/リチャード・リンカーン「レンヌ=ル・シャトーの謎」(柏書房)をあげておく。この本にはダン・ブラウンダ・ヴィンチ・コード」(角川文庫)がひっかかっているのでね。
 で、ここで著者のやろうとしていることは西洋史の大胆な読み直しだが、作中にあるようにすべて「遊び」。恣意的に資料を選択・利用し、時間と場所が隣接していればすぐさま因果関係あり、もちろんそれは実証されないが「陰謀である」とすればすべてOK。というわけでここで仮構された歴史は、十字軍遠征でイスラム社会と交錯したテンプル騎士団が弾圧消滅したのちも、秘密結社をつくって世界征服の陰謀をたくらんでいるということ。なぜ世界征服が可能かというと西洋の7か所ほどの聖地=世界の臍に何かの念動力を吹き込むと、世界=地球の魂が揺り動かされ巨大地震その他の災害を実行できるから。この秘術は失われているが、西洋各地に散らばった秘密結社がもっている古文書と言い伝えを統合することにより復活するという。なんとも時間をかけているのは、その統合の機会は120年に一度であり、全体が集まるまでに600年かかるというのだ。しかも途中でこの交接は暦の変更で失敗し、連絡方法を失った秘密結社はそれぞれ個別に活動を開始している。この秘密はときどき漏れることがあり、サン=ジェルマン、カリオストロカサノバ、ブラバツキー夫人などなどの謎の人物に、薔薇十字会、フリーメースン、ロスチャイルド家などの結社が関係しようと暗躍し、それを阻止するのがイエズス会。しかもテンプル騎士団エッセネ派クムラン教団の末裔でもあるのだとされる。ナポレオンもヒトラーもこの計画の情報を入手して、秘密の獲得のためにあの無謀な戦争とホロコーストを起こしたのだ。最終目標は西暦2000年に聖杯グラールを手に入れること。ここで「計画」が完成する。こんな具合の珍奇な考えがパレードするうえ、レイライングラストンベリーにレンヌ=ル=シャトーにファティマに地球空洞説にシオンの議定書に「奇巌城」の暗号まででてきて、現在のトンデモ説をほぼ網羅(ないのはUFOに異星人にUMAか)。こういう固有名がでてくるたびに「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!」だし、ニヤニヤしてしまう。
 恐れ入るのは、エーコの収集し再結合された「遊び」のトンデモ説は、まじめに唱えている連中の説より精度が高く、引用文献の豊富さと歴史解釈の面白さで凌駕していること。ここまでデータをあつめるということに脱帽。作中に、いくつかのキーワードをPCに入力してランダムな並べ替えを自動生成させ、もっともらしい文章を作り出すことをやっているのだが、トンデモ説というのはそういうキーワードを組み合わせればいくらでも作れるということになる。と学会本のマンガで「ドグラ・マグラ書房」なる出版社が同じ方法で企画を作っているのを思い出した。ともあれ、ポイントは記号はそういう自動的な意味生成装置を持っているってことかな。それともランダムな記号や文字の並びにも人間はなにか意味を見つける(付与する)ような仕組みをもっているってことかな。
 こうやってカボゾンやベルボやディオタッレーヴィは未完の「計画」を完成するために、真剣に遊んでいたのに、真に受けて「計画」を横取りする連中があらわれること。なにかのオカルト集団で自らテンプル騎士団の末裔を名乗っているのであった。もちろん彼らの集団の歴史も自分でねつ造したもの。ここも風刺の一環で、笑いの対象なのだな。いくつかの書評サイトでは、真面目にオカルトをやっていないというオカルト研究者のお叱りもあった。エーコの意図をしっかり読み取った正しい反応をしてくれて、こちらも笑わせていただきました。

    

(おまけ。こうしたオカルト、陰謀論、トンデモ説の合間に文学の仕掛けを入れてくるので油断がならない。シェイクスピア=ベーコン説、ジュール・ヴェルヌレイラインと地球振動秘術を知っていた説、「サム・スペード」「フィリップ・マーロー」「イシドロ=パロディ」などの固有名詞に、ポール・ニザンの引用など。ここでも見つけるたびにニヤニヤ。あとカゾボンの遊びは結局間違っていた、それは最初の前提であるラテン語で書かれた文書の読み方を間違っていたから、ことが明らかになり、なるほどこれは探偵の慧眼が実はなまくらであったことの謂い。となると、前作「薔薇の名前」のモチーフが繰り返されるのだね。
 もうひとつ。1582 年に、ヨーロッパの暦はユリウス歴からグレゴリウス歴に切り替えられて、その結果、1244年に作られた盟約の日にちがずれてしまって大混乱、という話がでてくる。エーコの発見と思っていたら、その種の議論はすでにあったようだ。それをさらに発展させた陰謀論があるというので、下記リンクをクリックしてください。
Irresponsible Rumors 2011