odd_hatchの読書ノート

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ウンベルト・エーコ「フーコーの振り子 下」(文芸春秋社)

 こちらでは「現在」の話を書こう。主要登場人物は、語り手である「私」=カゾボン。1943年生まれ?の大学紛争当事者。とはいえ若者の直接行動には懐疑的で、政治にも斜に構えたところのあるニヒリスト(というか優柔不断だが、知的優位に立とうとする臆病もので高慢な人)。大学では中世史の研究をしていて、反体制知識人や反抗学生の溜まり場である居酒屋に出入りしているうちにオカルト出版社の編集者ベルボとであう。卒業後は、ローマにいたくないので、ブラジルの客員教授になり、同棲している女性(黒人)といっしょに現地のトランス宗教の儀式に参加。女性と別れた後は、ローマに舞い戻り、やることがないので、知の私立探偵社を開設。すなわち教授や学生が調べられない事柄を代わりに調べて報告するという職業。ときには卒論の代筆も行う。再びベルボと出会って、出版社の企画にかかわり、「計画」を補完する主役になる。まあ、戦後ベビーブーム世代の典型的なドロップアウト知識人であるわけだ。学生紛争にかかわるにはマルクス主義に熱心ではないし、といって行動の結果、逮捕されたり怪我したりする連中には負い目と引け目を感じている。それでいてエリートぶった生きかたをかえるのでもなく、知的怠惰を楽しんでいるわけだ。
 ベルボはカゾボンより年長で、1932年ころの生まれか。北イタリアの出なので、彼の経験したのは村がファシストパルチザンに分かれて敵対しあったということ。ときとしてはまさに銃撃戦のさなかにいたのでもあった。ポイントはあまりに若いためにいずれにも加担することなく、「遅れてきた」という意識をもっているところかな。それは1968年以降の大学紛争でも同じで、今度は年老い過ぎて参加できないことになっている。「死に場所」が欲しいが(そこで自分がなにかの役割を果たすことを夢見ているのかな、とにかく彼は厄介者・余計者意識が強い)、そこに参加する勇気というか決意をもてるわけではない。
 こんな具合に1970年代のふたつの意識(この国でいうと「昭和一桁」と「団塊世代」)を描いている。というかそのカリカチュアを書いている。
 というのは、ここに書かれていない「現在」があるわけで、すなわち過激化した左翼テロリストの暗躍。その国の首相が誘拐され、暗殺されたという事件。これでイタリアの左翼はいっせいにだまってしまったということをエーコのインタビューかだれかの解説で読んだことがある(たぶんユリイカ1989年5月(特集:エーコ ベストセラー『薔薇の名前』はいかにして生まれたか))。そういうことだ。本文ではたった一行だけ、この話題がでてくる(カボゾンがブラジルから帰国したときの記述)。そのとき、カゾボンもベルボもそれぞれ過去に深刻な体験をして、何事かを語れる知識を持っているにもかかわらず、事態に向き合わず、オカルトや陰謀論に入れ込んでいる。その状況がそっくりそのままイタリア知識人(というか1970年代の先進国の知識人)であったということなのだろうなあ。左翼文献を並べていた書店が1973年にはオカルト、占星術、東洋思想などの書籍売り場に変貌していたとか、政治議論ばかりしている連中のたまり場が1973年にはインテリのおしゃべりの場になっていたとか。この国でも起きたことがそっくりそのままイタリアでも起きていたのだった(違いはエーコは1970年代をこうして小説にしたが、この国ではたぶん未だに書かれていないこと。野崎六助「煉獄回廊」と笠井潔の矢吹駆シリーズ。あとは立松和平のいくつかかしら)。

    

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