1983年初出。現在は絶版中。
第1部は現代(当時)の食に関連する社会の状況や企業活動がいかに問題があるかの指摘。肉に関しては薬漬け、密飼い、検査の不十分なままの食材提供。魚に関しては近海の汚染による漁獲量の低減、遠海におけるトロール漁法による資源の枯渇、養殖事業におけるコスト高や薬漬け。農についてもほぼ同様の問題。そしてこれらに関して無自覚なまま、企業や政府の無責任を受け入れる「消費者」の立場の批判。
第2部は、それに対抗するオルタナティブの提案。まあ、穀物を食え、豆や芋を食え、近海で取れる小魚を食え、肉や魚はやめろ、自分で野菜を育てろ、店頭にならぶ食材の履歴に関心をもて、同じような考えを持つ人と連帯せよ、というような感じ。前半は食養療法そのままの主張。後半は、共同体主義というかコミュニティを作って自活しようという主張。
※なお、マクロビオティックと呼ばれる食養療法で、死者が出ている。過激な原理主義化が、他者危害に加担する可能性のあることに注意。食料や食事に関する批判が短絡的に現代の医療、科学、制度の否定につながってしまう。
たしかに1983年にこの本を読んだ時には、この主張に共感を覚えた。にもかかわらずその後実践したためしがない。ということの問題のひとつは、自分の生活や職業が資本主義社会にとりこまれてしまって、オルタナティブな生活をする基盤ができなかったということ。なにしろ連日、午後10時過ぎに帰宅するような生活ではこの本の主張を実践することはかなわず、スーパーやコンビニの弁当を食うしかなかったからねえ。しかも、玄米食その他の主張を実践しようとすると、費用がかかる。ある程度生活に余裕のある人でなければ可能でない。これは別の格差拡大や差別につながらないかな。
もうひとつは、ここにある主張が経済と共同体についての思考を欠落しているということ。食養療法を実践していけば、農林水産業は復活し、外国資源の侵略的な略奪がなくなり、流通のおける無駄がなくなるとでもいうの? そんなものではないでしょう。個人的なアクションでもって問題が解決する、というのはたぶん1970−80年代の雰囲気の反映であるのだろう。そのときの国家とか社会管理のイメージはたぶんオーウェル「1984年」的なものだったと思うが、実際に成立した国家=資本=ネーションとか、政治家=官僚=資本のトライアングルの社会の構成は、個人的な生活変革や行動だけでは突き崩せない、あるいは非常に難しい。そのときに、経済や組織の考えを入れないと、主張はおかしなものに変質する。たぶん「ロハス」「マクロビオティック」みたいになって実効性がなかったり、カルト化したりするのではないかしら。むしろ社会起業家とかNPOのような経済と経営をする人の集まりでないと難しいと思う。著者はそういう運動では資本主義の問題を解決できないといいそうだが。そういう点を含めて、この主張や昔の「市民運動」なんかは、マルクス主義の影響を受けていて、運動の成果とパフォーマンスの検証、修正機能が足りないなあと思った。