odd_hatchの読書ノート

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ネルヴァル「暁の女王と精霊の王の物語」(角川文庫)

 ネルヴァルについて知っていることは少ない。シェリーやバイロンの同時代人。若いうちより海外雄飛の夢覚めやらず、イタリアからエジプト、トルコその他への地を放浪した。その経験をいくつかのファンタジーにまとめもし、ベルリオーズとの友愛は「ファウストの劫罰」に結実した(詩を書いたのがネルヴァル)。若くして客死した(1808-1855)のも、この当時の熱情的な青年に良く起こったことである。

 さてこの物語、時代はソロモン王の治世である。かの賢人王のもと、イスラエルの地は富み栄え、繁栄は揺ぎ無かった。ソロモンは王の気まぐれで、不変不滅を実現するために巨大な都市の建築を命じる。招集されたアドニラムは築城の、冶金の、彫像の天才であり芸術家であった。彼の創意工夫により、黄金の羊、翼獅子他の立派な立像も作られていたのである。さらには彼の腕の一振りに従う十万人の職人がかしずかえるのである。しかしこの芸術家はそのほとばしる着想をあしらいかね、心は孤独をさまようのであった。
 そろそろ完成も間近に迫ったころ、ソロモンはシバの女王バルキスを呼び寄せることにした。彼女は異教徒であるものの、その若さと美貌となによりも天性の知恵の豊かさによって名をはせていたのである。ソロモンに謁見したバルキスは早速ソロモンの心を奪ってしまう。しかしバルキスの目には、詩篇・雅歌・伝道の書などの箴言に叡智を凝らすソロモンもまた知者の驕りと権力のとりこになる哀れな男と見えるのであった。そこで、ソロモンは策略を使って、彼女との婚約を獲得する。すなわち何者もわれの王国から盗むなかれと告げ、夕食に一滴の液体も出さずに辛味の聞いた食事の饗宴を開いたのであった。咽の乾きに耐えかねたバルキスが噴水の水を口に入れたのをソロモンは見逃すはずがない。
 彼らの婚礼の決まった夜、アドニラムは王宮建築の仕上げとして、溶銅を流して華麗な彫像を完成させる作業にかかる。そこに棟梁アドニラムの権力を奪いたいおろかでさかしまな心の持ち主が、恐るべき策略(サボタージュ)によって、みなの心を震わせた。溶銅の坩堝は突然爆発し、多数の死者を出す事故になってしまう。人びとの逃げ惑う中、炎の中心にいたアドニラムは幽霊の案内で霊界に赴き、アダムとエヴァから連綿と続く嫉妬深い神、怒りの神の根深い憤怒のさまを見る。そして、アドニラムをそこにつれてきた幽霊がカインその人であり、最初の芸術家であり技術者であるカインの技はアドニラムに受け継がれ、ソロモンの栄華よりも長い時間を祝福されるだろうと預言する。夢から覚めたアドニラム、事故の現場に立ち、守護神カインの伝えた方法により惨事を解決し、見事王宮を彩る彫像を完成するのであった。それは人心をソロモンからアドニラムに移すことでもある。民衆はアドニラムの名を繰り返し叫び、彼のあとを追いすがる。
 孤独に打ち沈むアドニラムはあるさわやかな夜明け、バルキスと出会う。そのとき、天啓が二人を捉え、まことカインの告げた隠れた王族の末裔がアドニラムとバルキスその人であり、神意で婚約を前世から告げられていることを知るのであった。バルキスらは必死に隠したものの、うわさはソロモンの耳に聞こえ、すでに身体の全盛期を過ぎつつあることを自覚したソロモンは疑惑に耐えることになる。そこに事故の原因となる浅ましい棟梁たちが連れられ、アドニラムから秘密の言葉を獲得しなければ死罪とすると命じた。恐れおののいた棟梁たちは、ソロモンに暇を告げたアドニラムの出立の朝、秘密を聞き出そうとし、従わないアドニラムを殺害する。すでにソロモンとの婚約を破棄し、イスラエルの地を去っていたバルキスにはアドニラム死亡の報は届かない。
 主人公の三人はいずれも高貴で品位にあふれ、知恵の優れていること、我々読者の及ぶところではない。まして、美貌が彼らの元にあるというのであれば、彼らの恋はまったく我々読者の現実にはありえない理想の高みにあり、はるかに仰ぎ見ることになる。そうしてみることになった賢者3人の愛のなんと美しく、またはかないものか。まさに神に愛されたものは、この世には長くいられないということになる。不思議な想像力で書かれた19世紀前半の物語。アラビアとユダヤとアフリカの幻視がアラベスクか万華鏡のように散乱する。これはもう読んで陶酔するしかない。中村真一郎の筆も、ネルヴァル紹介の第一人者を自他ともに誇るものにふさわしい闊達さと流麗さを示す。あいにく、昭和27年の活字は小さくかすれていて、旧字はなかなか判読しがたい。もとは「東方紀行」の中の一編であり、文庫は品切れであるが、別訳が刊行されている。
筑摩書房 ネルヴァル全集 3 ─東方の幻 『東方紀行』他 / ジェラール・ド・ネルヴァル 著, 中村 真一郎 著, 入澤 康夫 著