odd_hatchの読書ノート

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アンリ・バルビュス「地獄」(岩波文庫) 公共サービスとインフラが整備されたから、自意識過剰の青年は閉じこもりとピーピングに「実存」を見出せる。

 高校1年の夏休み、読書感想文の宿題にバルビュスの「地獄」を選んだ。人生に倦んだ青年がホテルの一室に引きこもり、のぞき穴から隣室の宿泊客を覗き見るという話。単なる旅行客がやってくるだけではなく、金持ちの老人、夫をなくした未亡人など人生の種種の様相をあらわにするものだった。「暗闇の中の人間存在、実存」についてを感想にしたが、あいにく哲学書の一冊も読んでいない時期で、言葉をもっていなかったからできは散々だった。実のところは、実存云々はつけたしみたいなもので、隣室で行われる性的行為に股間を膨らませていたのであった。昭和20−30年代にはポルノ小説として紹介されていたのであって(古本屋でみかけたことがある)、ヘンリー・ミラーの性的なことに人間の実存問題があるという提起をさかのぼること30年であるのだが、こちらのほうは通俗的に受け取られやすいという文学的な弱点があった。
 で、今回は高校時代の宿題の復讐戦。
 物語は、20世紀の初めのある年に、田舎の30歳の青年が都会のうらぶれたホテルに宿を決めるところから始まる。田舎でうだつがあがらず、両親を失って係累のない青年にとって、成功の方法は都会にでることだった。彼は銀行の内定をまっている。しかし、安宿の部屋に隣室をのぞくことのできる破れ目を見つけたことから、彼の生活は一変する。ホテルのこととて、隣室に宿を借りる人は毎日変わる。その姿を、覗き見することになったのだ。そこでは、女が決して見せない裸を見せる、あるいは恋人との熱い抱擁を続ける。当時はキリスト教禁欲主義の思想とモラルが一般的で、性愛や裸体を人前にさらすことはなかったからだ。
 登場からして、かれは自尊心の強い男と設定されている。しかし、彼は社会に通用する技能や人脈を持っているわけではない。だから、彼は無用の人として扱われている。にもかかわらず、あるいはだからこそ彼は自分が誰よりもすぐれていると信じている。その根拠は、彼だけが孤独と向き合い、個としての人間が無であることを認識しているから。俗事に埋没している他人はそのような孤独と向き合い、「人生の真理」を探求しようとしない。だから自分はすぐれている。とはいえ、彼にはラスコーリニコフのような超人思想をもつわけでもなく、単に悶々としている。このような彼のありかた(思い返すと彼には名前がなかった、名無しであることが孤独を象徴する)は、高校生の自分には親近感を持つものだった。いくつかの思想書を内容はわからずにただ単に読んだことだけを理由とか根拠にして、テストの順位や志望大学のことに汲々としているクラスメートのあり方に嫌悪と自尊心を感じていたのだった。まったく自分にそっくり。
 ラスコーリニコフほどに思想を徹底するのではなく、彼は「ピーピング」に価値を見出す。ピーピングにおいて、視線は一方的であり、見られる他人と見る彼との間にはコミュニケーションはない。そして見られている他人は見られていることに気がつかない。このような一方的な視線のあり方、コミュニケートの仕方は神と個人との間にもある。ピーピングをする彼は、一方的な視線を持つことによって「神」と同じ立場に立つのだ。それは虚構である。不意に彼の部屋に進入するものがあれば、彼は犯罪者、あるいはアンチモラリストとして弾劾される、彼の嫌う他者によって彼の優越的な立場はなくなるのだから。そのような懸念は彼に生まれない(あるいは作者はそれに気づかない)。彼は「神」に近いと思い込んでいるが、それは一時的、一方的なのだから。しかも、見られる人は視線を感じないという密室にあるということで、プライバシーを捨てる。裸にもなれば恋人との愛撫もするし、娼婦であれば金と引き換えに愛らしきものを振舞うであろう。そのような個人の愚行の権利に侵犯するしてはならないというモラルを彼は失っている。それは、彼が虚構として作り上げた奇妙な優越の感情に基づく。
 とまあ、そんな具合に彼を客観視する視点を読者が持てば、これは甘ったれた青年の根拠のないプライドと犯罪を書いた小説ということになる。彼の視点は、のちにハイデガーサルトルなんかに通じる回路を持っていると思うのだが(この哲学者は怒るか黙殺するだろうけれど)、一時期実存主義(の表層)に熱中した自分を思い起こしながら考えると、この「私」を開始点にした考え方は、このような袋小路に陥ってしまう。なにしろ、自分がこの時代のこの場所に生まれた根拠、理由、意義を「この私」のあり方から導き出すことはできないのだから。宇宙が200億年前(ということにしておくとして)に誕生してからの一回限りの出来事としてのこの私の誕生が「いま―ここ」であるという理由を誰が説得力を持って語ることができるのか。だとすると、ここにいる「私」の存在は空虚であり、ノン・センス(無意味)であるということになり、だから、この宇宙的な空虚において「私」はなにかをなすべき意義も理由もみいだせない。どうにかしてそこに意義や理由を見出そうとすると、「共同体」やら「神」やら「天皇」やら「革命」などの観念を持ち出すしかないだろう(というわけで、笠井潔「テロルの現象学」につながる)。作者は40歳になるまではこのような「絶望」「実存」の小説を書いていた。おりから始まった第1次大戦に従軍したあと、彼はこの空虚や無を揚期したのか、反戦運動を組織し、スターリン時代で第2次大戦前のモスクワで客死する。たぶん「人類」「ユートピア」というような観念が若いころの空虚を埋めるものとして現れたのだろう。
 結論としては、読みなおす必要はなかった。時代(1970年代)の空気とティーンエイジャーの自分に自信を置けないころの背伸びとしてこの小説を選んだのだろうと思う。かつて自分の書いた文章にそっくりなものをここに発見して驚いたものだ。

「ぼくは幸福だろうか。そうだ。近親をなくした悲しみもなく、過去を負う後悔もなく、こみいった欲望もない。だから、幸福だ。」
「ぼくには才能もない。果たすべき使命もない。人に与えるおおらかな心もない。まったく無一物で、なんの才能もない。だが、それでいながら、なにかぼくにむくいてくれるものがほしい。」
「このふたりは一緒にいるが、事実ははなればなれなのだ。」

 こういう皮相でセンチメンタルな感情に共感していたのだった。
コリン・ウィルソン「賢者の石」(創元推理文庫) - odd_hatchの読書ノート

 ピーピングという一方通行的な視線を持つことは、なかなか難しかった。電気、ガス、上下水道といった公共サービスが整備されたのは、ほとんど戦後になってから。それ以前は、ひとつの家で多くの人が住んで、分担してことに当たらないといけない。家という制度は、概念があってそこに結集するようなものではなく、単に一人では暮らすことができず、他者の力を借りないといけなかったからだ。そういう集団には、プロジェクトを企画するものとマネジメントをする人が必要で、そこに権力と権威が集中していくうちに「家」という概念になっていったのではないか、とそんな風に感じる(正しいかどうかは知らない)。で、「地獄」の名のない青年はピーピングを可能にしたのだが、それは近代というか資本主義社会になって公共サービスが国家や地方自治体に任せられるようになった社会にいるからだ。彼は金を払えば、公共サービスを行使することができる。そういう社会の状況があったから彼はホテルの一室に引きこもることができる。
 こういう状態は、1900年当時だとホテルの中にしかなかったのだが、その後、状況はさらに拡大する。彼のホテルの部屋はわれわれのアパートと同じ。のぞき穴の代わりにテレビとパソコンがある。インターネットを通じて、他人のプライバシー(それが偽装されたものであっても)を一方通行で見ることができる。彼が隣室に宿を取った女の裸を見て興奮するように、われわれはそこらの店で購入したり、ネットからダウンロードしたAVを見て興奮する。そういう点では、「地獄」は現代でもアクチュアリティはあるなあ。そこに「孤独」や「実存」を突き詰めるほどの精神運動をするものはいないというのが違いかな。
谷崎潤一郎「犯罪小説集」(集英社文庫) 作者が誘惑する共犯関係にはいると、作者のマゾヒズムやピーピングはもう読者そのものの行為になってしまう - odd_hatchの読書ノート