odd_hatchの読書ノート

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ポーリーヌ・レアージュ「O嬢の物語」(講談社文庫)

 高名な作家が匿名で書いたポルノ小説。一時期はマンディアルグが作者ではないかといわれていたが、いまはどうなっているのかな(どこかの個人ブログに「数年前(2000年前後)になって編集者ドミニック・オーリーが自分であるとインタビューで認めた」との記述を発見)。
 書かれたのが1954年と半世紀も前になっていて、個別の描写は今日のポルノに比べると穏やか。この時代だと、ストリップでは嬢が動くことができない、映画でもヌードは映すことができない、などポルノにはきわめて大きな規制がかけられていた。ミラー「北回帰線」やダレル「黒い本」、たぶんジュネのいくつかなど「純文学」といわれるものも名誉ある発禁処分をうけていたのだ。この小説も当時の勇気ある出版社からでてすぐさま発禁処分をうけ、秘密出版で闇で読まれていたものだ。何の映画か忘れたが、セーヌ河沿いの屋台の古本屋で、店主がこっそりとこうした本を取り出し、客の紳士に売っていたのを思い出した。そういう地下流通で読み継がれた本。
 周辺状況の思い出だけでは仕方がないので、内容に入る。高貴な階層のお嬢さん、性的にうぶだったのが、ボーイフレンドの男の誘いにのって娼婦のトレーニングを受けていく。時には密室の館に監禁され、時には別の男の愛人に売られ、時には新しいお嬢さんの調教をしたりもする。たしかに現代の視点からは、描写は穏やかで、「プレイ」といわれる行為もヌルいといえるかもしれない。とはいえ衝撃的なのは、主人公「O」の感情が一切かかれないまま、状況が進展していくということ。彼女は得体が知れない。心に怪物を持っている。彼女の体験よりも彼女自身のほうが恐ろしい。
 その恐ろしさは、身体と感情が徹底的に分離しているということ。彼女は恋人やその先輩、富裕な紳士によって、幾多の恥辱、陵辱、監禁を受けるのであるが、その状況に対して一切の不満、質問、不安を打ち明けず、ただたんに受け入れていくのだ。このよう心の身体に対する徹底的な無関心は、通常の生活者にはありえない。彼女は多くのプレイの最中に叫ぶことがある。それは身体的な反応としてあるのであって、心底からのものではない。ただたんに叫ぶだけなのだ。彼女からは哀願は現れない。
 では何が、彼女をその異常な状況を受け入れる理由になっているのか。これもわからない。彼女の心の怪物がそれを楽しんでいるから、としかいえない。彼女の怪物が楽しむなにごとかも想像することもできない。ハードコアポルノに登場する素人お嬢さんというのがこの国もいるわけで、彼女らの映像を見ると、同じ感想をもつことになる。
 表面的には、彼女を調教する恋人や先輩、紳士らのほうが怪物的である。しかし、彼女の状況に対する徹底的な無関心を見ると、彼女の「快楽」のために彼らが奔走しているように見えてくる。加虐と被虐の関係は逆転して、彼女を責めさいなむ男たちは快楽の女神「O」のために尽くす奴隷になる。サディスト−マゾヒストの心情的な関係は単純な一方通行のものではなく、互いの立場が逆転し、さらに逆転するというような無限の円環運動を続けるのだろう。こういう立場が入れ替わり続ける関係というのは、それまで明らかにされなかった。だから「発見」したサドという人は心理学の「革命家」なのだ。

    

 ボンドガールだったコリンヌ・クレリーを主演にして映画が作られた。いわゆる文芸ポルノであって、性表現を拡大した凶暴な映画(「ディープ・スロート」「イマージュ」「ウォーター・パワー」あたり)ではない。