odd_hatchの読書ノート

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ロラン・バルト「明るい部屋」(みすず書房)

  まあ、これを読んでも「写真」とは何かが凡庸な自分の頭ではよくわからないということだ。「とは何か」という問いそのものが形而上学のドグマに犯されているのだ、と作者から一笑されるに違いないのだが。たしかに、写真を見るときの不可思議さ、違和感、底の知れなさというのは時に感じることがあっても、そこに徹底的にこだわり、何かを語ろうというのは困難なことであるに違いない。というか、あまりにありふれているので(なにしろ自分の世代には、生まれたときにはすでに写真は周囲に満ちていた。でもそれは商業写真であって、自分の写真ではない。また、なぜ自分は子供のころ、自分の写真を見ることに熱中したののだろう)、存在が自明すぎて不思議を感じなかったのだ。
 作者はいろいろな指摘をしているが、自分には二つのことだけが重要。ひとつは、写真が「かつて=それは=あった」というノエマをもっていること。ん、ノエマって何だ。まあいいや。写真に写されたものが、確かにかつて=それは=あったというのがそれを見るものには否定できないということ。それはすなわち、すでに死んでいることを表明しているのである。それが喚起する感情は悲壮さとメランコリー。「写真はあらゆる浄化作用、カタルシスをしめだしてしまう(P111)」。「歴史的な写真の場合は、時間の圧縮がおこなわれ、それはすでに死んでいる、と、それはこれから死ぬ、とがひとつになっているのだ。(p119)。」
 もうひとつは、にもかかわらず写真は現在に突き刺してくるということ。歴史的な事実であることであっても、写真を見たときにそれが現在としてみるものに衝撃とかおどろきをもたらすということ。たしか幕末の写真で、斬首された志士の写真があるが(それは木の台のうえに首がさらされていて、倒れないように枕のようなもので固定されている。表情は静かに眠っているように見えるが、木の台の下にはなにもない)、志士が死んでいてすでに150年もたっているのに、そこから受ける衝撃は現在であり、みるたびに生々しい。こういう生と死が入り混じっていて、どちらがどちらとも決めかねるあいまいで浮遊していながら、確実な気分をもたらすのだ。まあ、写真について考えると、こんな風になんともしがたいところに陥るのだろう。いくつか写真論を読んだことがあるが、こんな気分をもたらす文章はちょっと思いつかない。
 あと作者の個人的な述懐で面白かったのは、自分の写真であるが、それがいつどこで撮影されたのかさっぱり覚えていなくて、不安な気分にさせられるということ。確かに写っているのは自分なのだが(顔つきとか、服装とか、表情とかでわかる)、いつ・どこで・だれが撮影したのかわからない。自分もそんな写真を一枚もっている。背景からすると、大学の建物の前で、季節は春から夏にかけてなのだろう。でも、シャッターを切られたことも記憶がなく、なにしろレンズを向けられたという覚えもない。これは自分の記憶とは一致しない、でもそこにいるのはまぎれもなく自分であるとすると、そのとき自分が誰かの前で存在していたのは確かなはずだ。にもかかわらず・・・ そんな思考の迷宮に入り込み、不安で宙ぶらりんなところに入り込んでしまう。自分は本当に存在していたの?、存在の証拠はあるはずだのに。
 おお、すごく重要な指摘があった。「写真は一人で眺めるものである(P121)。」