odd_hatchの読書ノート

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高橋是清「自伝 上下」(中公文庫)

 だるまと呼ばれて庶民に人気があり、日本銀行総裁・大蔵大臣を歴任、開成中学の校長の経験もあり、2.26事件で暗殺された経済人が語るバイオグラフィー。自叙伝だからなくなる時の様子は書かれていないのは当然として、昭和恐慌時代が書かれていないのは残念。とくに昭和2年の金融恐慌を収束したり、昭和5年大恐慌日銀総裁を務めたりと、晩年の活躍のほうが重要であるからだ。この自叙伝が書かれたのは、そのような大役が回ってくる前の閑居な時代に口述されたものだから(生年1854-没年1936)。
 面白かったのは2点。
 この人は転職を繰り返した。子供のときに渡米。だまされて奴隷として売られたのを皮切りに、いくつもの職業を転々としている。本人自身の希望もあったのかもしれないが、多くの場合は知友から懇願される形で転職していった。この人は有数の銀行家であるのだが、銀行家になったのは本人が希望したからではなく、いくつかの起業をしていた経験を買われてという次第。若い時には自分が何に向いているのか、何が得意なのかということに迷いを感じるのだが、その迷いは当然としても、「天職」なるものはないのだと思う。自分に与えられたわずかな選択肢の中から選んだことを徹底して実行することによって、与えられた仕事が「天職」に転換するときがある。そうではない仕事であるかもしれないが、その判断には3年はかけろ、ということを思う。このだるま宰相も転職の連続ではあるが、ひとつの仕事を3年は行っていた。上記の考えのひとつの例証としたい。
 この人は、仕事の効率化を指示する名人でもあった。ルールを作ること、フォーマットを統一すること、事務部門を集約すること、などなど。これらによって、誰でも同じ結果を短時間で出せるようにした上で、考えることを部下に命じる。そういう仕事のやり方が、経営者として有効であったと思う。
 英語ができて、行動力があり、財務に明るい、そして頭がいい。こういう経営者あるいは財務家が日本にいるとは思わなかった。追記すると、1920年代のヨーロッパの不況とこの国のバブル経済があったとき、この国の財界人・企業家はこぞって西洋を訪れたのだった。もちろん物見遊山が目的であったのだろうが(そのときの買い物が「開運ナンデモ鑑定団」に出品されることがままある)、ときには先方の新技術や機械を導入してこの国の産業振興に投資するものもいた。もしかしたら、昭和より前の人のほうが物怖じせずに国際的であったともいえる。
 一方、この人は30代で日本銀行に入社してから、日本の金融行政に深くかかわってきた。中央には優れた人がいても、その状況は地方には反映されなかったのか。それとも、村社会のような共同体の馴れ合いに金融機関が巻き込まれて変質していったのか。昭和の金融恐慌やバブル破綻後の金融機関のモラルハザードはひどいものだった。
2005/10/6
 この自叙伝の最終章は、1905年日露戦争当時。ロンドンに行って国債を販売するところになっている。今から思うと、帝国主義諸国の関係からすると、経済的には圧倒的に弱い国が当時最大の強国であるイギリスに多くの援助を受けたことは奇跡のように思える。当時50代前半の高橋の人徳によるところは大きいにしても、むしろ日本の要望を受け入れたイギリスの度量の大きさに驚くべきなのだろう。またこの戦争について、きちんと見通しをもった人たちが政府の内外にいたことにも驚く。国債の発行額や償還などについて、とくに財務家とはいえないような人(伊藤博文)もたしかな意見を持っていた。この戦争については、政府や軍が協力して遂行しようとする意思、それは危機感の現れであるだろうが、があり、それが政策に一貫されていたのだということがわかる。
 それから40年後、いや30年後には、このような見通しなどなく、経済問題を一切考慮することなく、協力すべき相手といさかいを起こしながら、戦争に入っていった連中がいた。彼らにできることは従業員を低賃金で働かせることくらい。資金をどこからか調達することなんぞできない。赤字国債を大量発行して、生産性のない産業=軍隊に投資するだけ。なんと言う違い。これが企業であれば、すぐに資金繰りに窮して破産して淘汰されるのだが。

  

高橋亀吉/森垣淑「昭和金融恐慌史」(講談社学術文庫) - odd_hatchの読書ノート