odd_hatchの読書ノート

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カール・マルクス/フリードリヒ・エンゲルス「共産党宣言・共産主義の原理」(講談社文庫)

 マルクスにアソシエーショナリズムの考えがあると読んだことがあるのだが、岩波文庫版「共産党宣言」を見返したときにはそんな記述はみつからなかった。こちらの講談社文庫版で読み直すと、それらしきものがあった。II章「プロレタリアと共産主義者たち」の終結部。

岩波文庫69P「階級差別が消滅し、すべての生産が結合された個人の手に集中されると」
講談社文庫38P「階級差別が消滅させられ、すべての生産が、連合した個々人の手に集中されると」(連合にはアソシイールテンとルビ)

岩波文庫同上「階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会の代りに、ひとつの協力体が現れる」
講談社文庫同上「旧市民社会およびその諸階級と階級諸対立のかわりに、ひとつの連合体があらわれるのであり・・・」

 印象だけでいうと、岩波文庫版ではプロレタリアートの力を党に結集しようだし、講談社文庫版では個々人の連合から国家を止揚しよう、となるのかな。なにぶん1920年代の翻訳と1970年代の翻訳では研究と共産党の権威に差があるのであって、翻訳の仕方もずいぶん変わるのだということをおさえておこう。訳者の解説によると、ドイツ語版の「交通」は英語版では「交換」に、「市民」が「ブルジョア」になるなど他の言語でも問題は起きているということだ。
 久しぶりに読んでの感想は、ここでマルクスたちは生産資本の所有が私人であることを問題にしていて、その止揚のやりかたとして国家による所有と同時に「社会」による所有もあると論じているところが興味深かった。国家による所有が私人による所有ほどの競争力、生産力を持つわけではないことが歴史的な実験で明らかになった(ソ連だけでなく、この国の鉄道や郵便、銀行制度など)となると、別の道がありそうだと思えるのだった。なるほどこの考えはアソシエーショナリズム(個々人の連合、連合体)につながるもの。ここに宇沢弘文「社会的共通資本」の考えを取り込むと、社会的共通資本を所有するのは国家である必要はなく、自治体でも連合(アソシエーション)でもいいわけだ(ナショナルトラスト運動などはこれだな)。
 気になるのは、この宣言のあと、生産資本を共同所有したり、国家と私人が持ち合うなどいろいろな資本所有形態が実行されたのだけど、ほとんど失敗しているのだというものあげておかないと(ヤーギン/スタニスロー「市場対国家」日経ビジネス文庫)。こういう実験は小規模、少人数でないと実現可能ではないのかもしれない。まあ、そこで私人による生産資本の寿命を決めておき、ある期間がすぎると解散とするのもひとつの手かもしれないね(笠井潔「国家民営化論」光文社)。とにかく「資本」の自己増殖は市場の競争にまかせておくと際限なくひろがるものだし、そこにある程度の規制する制度があってもいいのかもしれない。思い付きなので真摯に扱わないように。
 あとマルクスは社会的共通資本の国家所有にやけにこだわるなあ、運輸・銀行・教育・育児など。マルクスの時代にはこれらはすべて私人資本か村落や家族の共同体で行われているのだったから(それこそ軍隊くらいしか国家所有でなかったかも)、これらを国家の手に集約するというのは、機会的平等を達成するのによかったのだろう。ただ、それから150年たつと、かならずしもマルクスの提言のとおりに国家の役割を決める必要はないよなあ、という感想。
 なお、「宣言(マニフェストだってさ)」を書いたのが、マルクス30歳のとき。内容にまだ未熟なところはあっても、きわめて早熟な知性の持ち主であったなあ、と口ポカンの感想。

      

 水田洋訳の講談社文庫版は長らく品切れ。講談社学術文庫で再販されたらしい。