ああ、なんともすれちまったなあ。これほどの年期をかけてミステリを読んできたおかげで、始まりの二つの章を読んだところで、仕掛けの見当がだいたいついてしまった。多くの人が「驚愕」のという解決もそのときに思いついたことの範疇に収まってしまった。
ポイントはナラティブにある。一人称のモノローグには注意せよ、そういうことだ。
今、高橋是清自伝を読んでいるのだが、この一人称で書かれた自伝(実際は彼にほれたジャーナリストによる聞き書きで、本人自身のチェックの上で上梓されている)は率直に過去の出来事とその時の心情を語っている。その素直さのゆえに(自分の判断ミスもちゃんと報告しているのだから)、そこに書かれたことは真実であると思い込む。とはいえ、それは本当か? 刑事事件の告白録ではあるまいし、そこにすべてが書かれているというのはありえることであるのか。むしろ、一人称を使うことによって、うそをそこに塗りこめることができるのではないか。その文体の率直さこそが、うそを誘発し、都合の悪いことをしっかりと隠せるものではあるまいか。日記を書いたり、自分に関する文章を綴ったりした経験のあるものは、自分の心情を語りやすいその文体のゆえに、自分を偽るのではないか。率直な自己を演技して、本心をさらに隠すことを行うのではないか。古い文書にはまず一人称の語りはない。それは神の語る言葉でしかありえなかった。おそらく一人称の文体の創始者は、デカルト(方法序説)やルソー(告白録)あたりだろうが(いやに時を隔てているな)、その率直さによって隠されたものがあることは後の人によって幾多にもあばかれてきたのではなかったか。
もうひとつは「見えない人間」を発見したこと。健常者の思い込みによって隠されることがあることを、このミステリであきらかにしている。俗物を描写したら天下一品の作者の筆によって、周囲の俗物性が顕になるほど、隠れていく人間がいる。まことにロートレックなどと大書するのは、ポー譲りの大胆な仕掛け。
ま、自分もこんな駄弁を弄することによって、「真相」なるものを糊塗しようと苦労しているのだから。大変なのよ、書くということは。あるいは20世紀最大のミステリは言葉そのものであるということ。
「朝のガスパール」でもそうだが、この人、パーティのような多人数が一同に会する場面の描写がうまくて、おもしろい。それぞれの人物の思惑が交錯する有様は熟読するにしかず。バロック時代のポリフォニー音楽のように複数の旋律(思惑)が同時進行する様子を堪能。