odd_hatchの読書ノート

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竹本健治「匣の中の失楽」(講談社文庫)

 これで3度目か4度目かの再読。
 この迷宮めいた小説を少し変わった観点からサマリーをかいてみよう。すなわち、序章はたぶん一般的な小説であるとして、ミステリー愛好家の大学生とその周辺の仲間(計12人)のひとりが7月14日の盛夏に密室で刺殺された、という小説(第1章)を小説の登場人物と同じ名前の人物たちが読み終えたらその一人が密室状態のアパートの一室から消失した、という小説(第2章)を小説の登場人物と同じ名前の人物たちが読み終えたらその一人が借り切った喫茶店の一室で密室状態の中で絞殺された、という小説(第3章)を小説の登場人物と同じ名前の人物たちが読み終えたらそのひとりが誰かのアパートで雑魚寝しているとき車で一時間も離れた密室状態のアトリエで刺殺された、という小説(第4章)を小説の登場人物と同じ名前の人物たちが読み終えたらそのひとりが黒死館めいた洋風建物の収納室で密室状態にあるところで首を切られた、という小説(5章と終章)を読んだ・・・ ということになるのかしら。
 このまとめは講談社文庫解説の松山俊太郎の見取りとはちょっと違っていて、彼は序章が強固な現実でそのあと奇数章と偶数章で現実と架空の境があいまいになっていくさまに注目している。上のようにまとめると、むしろ5章と終章のほうがより強固な現実であって、その前の章になるほど現実と架空の境目があいまいであるという見方をとることになる。まあ、実のところはどちらも同じようなものだ。とりあえず、最後の章で奇数章の事件は「解決」が与えられるけれど、そこにミステリー愛好家をうならせるような新規で斬新なアイデアが持ち込まれていると期待しないほうがよい。今回読み直して思ったのは、この「解決」というのは以前どこかで書かれたアイデアを少しずつひねって組み合わせたもの。「解決」の内容はたぶん著者の主目的ではなく、ではそれはなにかと作者に尋ねたとしても「またとなけめ(nevermore)」としか答えない凶々しい鳥が飛んだ先の黒く暗い影のようなあいまいな返事しかしないだろう。(← わかるかな)

 ではなにが目的であったかということを作者に代わって忖度すると、以下の登場人物たちのつぶやきをみればあきらか。自分の再読したのは入手しにくい講談社ノベルス版でページ数をだしても参照しずらいだろうから、ページ数はださない。その代わりに誰の発言かを記載しておく。あと、並びは登場順。

「増殖するトリック、物語全体がトリックになっているような小説」(ナイルズ)
小説の冒頭に総ての謎の解決があり、そしてそこから始まってゆくような小説」(曳間)
「結末で合理的に総ての謎が解決されて終わるような小説は面白くない」(曳間)
「それがナイルズ、お前への荊冠に他ならないんだ(中略)犯人の意図というものを、この現実ごとひっくるめて、あらかじめ壺の中に封じこめてしまうことだよ」(ホランド
「本質的なところとは全く無関係な地点で、しかもはっきりした意図もなしに様ざまのトリックが仕掛けられているような気さえするんだよ」(ナイルズ)
「架空の小説のさかさまが、今度の現実の事件ではもういっぺん裏返されているじゃないかと思えてくる」(倉野)
「『いかにして密室は作られたか』には、そんな感じで、各人へのひそかなメッセージが織り込まれているのかもしれない」(倉野)
「小説は動機作りのために書かれた」(ナイルズ)
「小説はワトソン探し」(ナイルズ)
「現実のさかさまと架空のさかさまの向かい合った狭間にたって、そこに映し出される錯綜した謎に、ただ戸惑いめんくらっている」(倉野)
「この小説には解決編というものがあるのかね?」(布瀬)
「この小説のフィクションの部分からみると、(中略)やっぱりこんなふうに、現実の出来事と架空の出来事とが互い違いに進行していく趣向なんだろう?」(羽仁)
「ただ部屋の中で一人の人間が姿を消してしまっただけの、正体不明の事件よりは、いかにも禍々しい悪意の元に行われたものの方を、現実であってほしいと望むのが人情なんじゃないかな」(曳間)
「自分自身が事件のただなかにいるために真相が見えないとすれば(中略)今度の一連の事件は、なんと言いますか、人間の理解力を超えた何者かの手によって操作されているのではないでしょうかね」(影山)
「これがすでに書かれた小説かなんぞの話ならば、騙されていたのは読者ひとりだったということで落ちをつけることもできるか知れんが、どうも当事者となってしまうと勝手が違う」(布瀬)
「俺が言いたいのは、果たしてそれが真相だったかなんてことじゃない。問題は、こんな推理も成り立つんじゃないかということなんだ」(根戸
「彼らは本当の解決がつけられるとするならば、それはここならぬ架空の側に任せなければならないことを悟っていた。現実と架空の関係式は、常にそういうものでしかないのだろう。果てしなく拡がる不可知の海の前で、彼らにはただ、待つことだけが赦された行為なのかも知れなかった。」(第4章の作者)
「ナイルズの小説の、二章、三章、四章の冒頭は、総て僕たちがナイルズの小説のそれまでの章を読み終えたという描写で始まっているだろう。もしかしてナイルズの小説のトリックはそこにあるのかも知れないんだ。あの中の言葉でいえば『図地現象』ね。あれを逆利用したトリックだよ。」(羽仁)
「この世界は失楽園以外の何者でもなかったんだ。だけど、俺たちはこの何もない密室の中で、いつまでこの失楽を担わねばならないのだろう。」(根戸
「そうつぶやく少年の前には、しかしなお圧倒的な不在があるばかりだった。そこから総てが始まってゆくにしても、果てしもなく続く霧の底を、殆ど泳ぐようにして歩き続ける少年は、自らの意思とは関係のない世界を待たなければならないのである。」(エピローグの作者)

 という具合。しかもこれらの発言をみると、最終章の「解決」それ自身が小説の早い時期にすでに解答済であったことすらわかる。なんという趣向の詰め合わせ。後に「ウロボロス偽書」を読んだとき、なぜそれが書かれなければならないのか不明であったけど、「失楽」を再読したら、なるほど「偽書」は突然変異ではなく「失楽」の延長にあったというわけだ。「失楽」は二重だったのが、「偽書」では三重になっているという違いくらい。
 上記の引用のように地と図の反転現象が起きているというのが重要な仕掛けなのだが、もうひとつ小説の中で印象的な説明である二枚の鏡を向かい合わせたときの無限の反映現象もこの小説の意図したところ。小説中では、鏡を覗き込むと無限小の映像の先で次々と図が自己増殖しているという魅惑的なイメージが語られる。無限の彼方の先にいるのは、ラプラスの魔か、それとも世界の果てをめくって「誰もいないぞ」と叫ぶ小魔か。(← わかるかな)
 あと書いておいたほうがよいのは、この晦渋な地の文章がなるほど松山俊太郎の解説にあるように「死霊」の優れた模倣(パスティーシュ)であること。これは講談社ノベルスのチラシにあったのだが、埴谷雄高の知己である編集者が作家に「死霊」のミステリー版がでた、と報告もしているくらい。闇・暗・夜というような光のない状態(たぶん、=不在、虚体)を似たような語彙をいろいろ集めてみたようなイメージを延々と書き連ねていくさまはまさに「死霊」の世界。それに感化されたか「あっは」を口癖にする「羽仁」なる人物もいるしね。「死霊」をめくっていたら、シンクロ率の高そうな一節(詩)を見つけたので、引用しておく。

 「われはすでにわれの影にして
  しかもなお盲いたるものの影のごとく
  微光だになき世界の影にほかならず。」
(「死霊 II」第五章 夢魔の世界 講談社学芸文庫121P)

 そう考えると、「解決」が陳腐であっさりしているのもかまわないことで、主題は彼らの饒舌で執拗でペダンティックで、語ることそのものが目的である長く長い会話(というかほとんどモノローグ)とその架空の論理を重ねることなのだろう。ここまでくるとようやく本書が「黒死館殺人事件」「ドグラ・マグラ」と同じところにあることが判明し、なるほど戦前の奇書もまた語ることと架空の論理を構築することそれ自身が目的であると知れるのであった。
 そうしたことをふまえて「現実」で驚くのは、この膨大な小説を書いたのが20-21歳の青年であったこと。この頭の良さと膨大な読書量にはまったくかなわない、と脱帽し、この「失楽」がこの国の文学史の系譜の上にありながらどこか特殊なところにある傑作であることを全力で賞賛する。