odd_hatchの読書ノート

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ヘンリー・ミラー「南回帰線」(新潮文庫)

 世界文学史年表にのっていたミラーの「北回帰線」を読んだのは高校2年のときだったが、何を読み取ったのだろうか。今回同様に最初のページから最後のページまで活字をトレースしていったことに過ぎなかったのだろう。
(脱線するが、文学に興味をもったとき、本屋や図書館の書籍の膨大さに圧倒されてしまう。10代の読書でガイドにしたのが、国語の教科書に載っている文学史年表。ここに載っているのを読んでいったのだった。高校に通う3年間に「赤と黒」「白鯨」「罪と罰」「アンナ・カレーニナ」「緋文字」「チャタレイ夫人」「神々は渇く」「ツァラトゥストラ」「社会契約論」「共産党宣言」、「破戒」「月下の一群」「楡家の人々」、夏目漱石のほぼすべての長短編を読んだのはそのおかげ。積極的にお勧めはしないが、試してみて。一方で「黒死館」「ドグラ・マグラ」「虚無への供物」なども読んでいたのだ。それは別のガイドを使った。)
 さて、これは1939年の刊行だが、1930年前後のミラーと妻ジェーンのことは、当時いっしょにいたアナイス・ニンが日記を書いているので(ちくま文庫)、それを参照のこと。アナイス・ニンのバイアスのかかったものであるが、ジェーンは美しいが文学者的な頭の持ち主ではなく、ミラーを手こずらせていた。ミラーも友人らと馬鹿騒ぎをして、定職にもついていなかったから、それほど人を非難できるわけではない。
 この人は「事実は重要ではない、真実が重要なのだ」と語り、この長い小説にはストーリーがなく、時間もさまざまに変化し、内面を描写していると思われる文章もどんどんテーマが移ろっていく。そういう書き方でこそ「真実」が現れてくるというのだが、ではどのような「真実」であるかというとさっぱりと明確ではなく、真実らしきことの周辺をたゆたうその運動、それは一瞬ごとに姿を変え、以前のものはすぐに死んでしまうという音楽に近いものだ。
 そんな自動書記のような文章の綴れ折りには、社会批判(棒給生活や組織に組み込まれること、人に指示や命令をしたりされたりすることの忌避)や死と性のことが延々と書き連ねられている。この言葉のパワーがミラーのミラーらしさの源泉になっているのだろう。
 面白いと思ったのは、パリに生活していたのにシュールリアリズムやダダの運動を知らなかったということ。言葉に対する感覚は彼らに似通っていたのにねえ。シュールリアリズムの連中は1930年代の社会不安において、左翼の方に走り、組織化されたことによって、運動の終焉を迎えた。ミラーはそんなふうにはならずに、いつまでも過激な言葉を扱った。政治と人生の交差する具合が、ヨーロッパとアメリカでは異なるためかな。