odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

グレアム・グリーン「おとなしいアメリカ人」(早川書房) 1950年代前半、覇権国から没落したイギリスからみると新しい覇権国アメリカの言動はナイーブなのに厄介ごとばかり起こす青二才。

ヴェトナム戦争直前のサイゴンで一人のアメリカ人青年が無惨な水死体となって発見された。引退間際のイギリス人記者ファウラーは青年と美しい地元娘を争っていたものの、アジアを救うという理想に燃えていた純真なライバルの死に心を痛める。しかし、ファウラーには警察の捜査に協力できない秘密があった―無邪気なアメリカと老獪な欧州の報われない邂逅を人間ドラマとして紡ぎあげ、巨匠の転換点となった記念碑的名作。」


 舞台は第1次インドシナ戦争から南北分離独立までの1950年代前半。日本の敗戦によって政治的な空白のところに、元の宗主国であるフランスが戻ってきた。戦前の植民地政策を続行しようとしたが、二つの勢力が台頭、すなわち民族独立を求めるナショナリズムの組織と中国に影響された共産主義革命を求める組織、これらの活動に対し、フランスは軍隊を動員し、力による封じ込めを図る。しかし、とくに共産主義勢力の反抗が激しく、戦闘は長期化していた。アメリカは1950年に軍事援助を開始。そういう1952年ころが舞台。
 語り手のファウラア(全集版の表記に従う、以下同じ)はイギリスのジャーナリスト。新聞社の特派員としてサイゴンに長期滞在している。家政婦としてフウオングという娘を雇っていたが、当然のごとく現地妻になってしまった。フウオングは西洋人のみたアジア美女の典型で、何を考えているか内面を読むことはできないが、夫には従い熱心に奉仕する。ファウラアにはイギリスに妻と子供がいるが、すでに別居状態。フウオングと結婚するために妻に離婚を申し込むが、カソリックの妻は承諾しない。そんな具合にイギリスに適応できず、帰還したくない中年男がいる。
 オルデン・パイルはアメリカの経済援助組織の一員。ヨーク・ハーディングなる経済学者か政治学者の思想にかぶれていて、ベトナム民主化を実現したいと思っている。そのとき、現政権は腐敗しているし(親族の登用とか賄賂とか私腹を肥やすとか)、共産主義政権はNGなので、第三者野党勢力(可能であればカリスマ性を持ったリーダーであることが望ましい)が政権を獲得するのがよいと考えている。このあたりは、1950年代のアメリ外交政策の現れを忠実に反映。現実の第三勢力は反主流の軍人一族くらいしかない状態。パイルはそこにベトナムの未来を夢見ている。パイルは偶然出会ったフウオングに一目ぼれし、ファウラアに譲ってもらい結婚することも夢見ている。彼女をアメリカに連れ帰り、学者の両親に紹介し、美しい結婚生活をしたいのだった。
 ストーリーは、フウオングをめぐる三角関係を描き(フウオングは自分の意志を持たないので、ファウラアもパイルもやきもきするばかり。パイルは田舎の中学生のようなうぶさだし、ファウラアは妻との縁を切れないので進展させることができない)、ファウラアとパイルのおかしな友人関係を描き(パイルがフウオングに求婚することをファウラアに告げるためだけに最前線の戦場を訪れたり)、夜間外出中にヴェトミンの攻撃にあって九死に一生を得たり、高級レストランを狙った爆弾テロの現場で偶然出会ったり)、ファウラアのニヒリズムでせつな的な生活が描かれたり(フウオングの作る鴉片を飲んだり)。彼らが遭遇する戦闘シーンは、開高健ルポルタージュや一連のベトナム戦争映画にそっくりなのであわせて読んで見ておくとよいだろう。ラストにはパイルに関する驚愕の真実が暴露されるので、それを楽しんでほしい。さほど長くない小説にいろいろなことが書きこまれているので、注意深く読み取ろう。それが小説を読む喜悦。
 さて、「おとなしいアメリカ人」というのはパイルのことだが、当時のアメリカという国の暗喩でもあるだろう。すなわち、ヨーク・ハーディングなる学者の説くアメリカ型の直接参加民主主義と自由主義経済体制を信奉し、一方外交の駆け引きにおいてはナイーブで理想を振りかざし、若々しい行動力がやっかいな事態を生みながら反省なく同じことを繰り返すというような。中年のイギリス人ファウラアにとっては、パイルは厄介なもめ事を起こしては事態解決能力をもたない青二才であるわけ。彼はパイルをイノセントでナイーブだといっているが、それはそのまま当時のイギリス人(退役した帝国、老成した大人社会)からみたアメリカであるわけだ。彼の苦々しい思いは、たぶんヨーロッパの知識人のものなのだろうなあ。
 それがたかだか10年後には、強面で強引な「帝国」国家になり、事態の「収拾」のためにフランスになりかわってベトナムでより厳しい戦争を始めることになる。その転換点はいったいどこにあったのかしら。

生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日」→ https://amzn.to/4bLl3ij

吉野源三郎「同時代のこと」→ https://amzn.to/4bwLXdz
石川文洋「戦場カメラマン」→ https://amzn.to/4dsW44R
岡村昭彦「南ヴェトナム戦争従軍記」(岩波新書)→ https://amzn.to/3Kcg8Lz https://amzn.to/44wLp4V
開高健ベトナム戦記」(朝日文庫)→ https://amzn.to/3v5wC4c
開高健「渚から来るもの」(角川文庫)→ https://amzn.to/3x2XyC7
開高健「歩く影たち」(新潮文庫)→ https://amzn.to/3II3KSB
本多勝一アメリカ合州国」(朝日新聞社)→ https://amzn.to/3QBkFKX

グレアム・グリーン「おとなしいアメリカ人」(早川書房)→ https://amzn.to/3UQn8Us


 あと上記開高健結城昌治「ゴメスの名はゴメス」笠井潔「サイキック戦争」「バンパイア疾風録」などこの国のベトナム戦争ものには、こういう「アメリカ」観がないので、対照のために読んでおくとよい