odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

コーネル・ウールリッチ「恐怖」(ハヤカワ文庫)

 「彼の指が女の喉元にくいこみ、やがて女の体は動かなくなった……証券会社に勤めるマーシャルは最愛の女性と婚約し、今日が結婚式だった。しかし、たった一度おかした過ちから恐喝を受け、愛する女性と結ばれるため、結婚式の当日に恐喝者を殺してしまったのだ。殺人の事実を隠蔽し、式を済ませた彼は、ニューヨークを離れ追われる者の苦痛と焦燥の淵へと向かっていく─ウールリッチ的叙情をサスペンスにあふれる佳品(裏表紙サマリ)」

 「黒いカーテン」で不満に思った夫婦の葛藤をテーマにした小説。結婚式を終えたマーシャルはニューヨークを逃げて、どこかの地方都市に就職する。しばらくしてニューヨークからきたという新人社員はマーシャルを尾行しているようで、マーシャルは事件の露見を恐れる。でもって、彼が事件を起こし、さらにその街にもいられなくなって、ニューヨークに舞い戻る。事件の決着をつけるために。例によって、シンプルな言葉しか使っていないのに、主人公の焦燥感や不安感を描写しているのは見事。後半になってマーシャルの勘違いがさらなる事件を生むごとに、主人公が狂気をもつようになっていく(回復不能地点に近づく、乗り越えてしまう)あたりがよかった。(ストーリーは、ドライサー「アメリカの悲劇」をベースにしているのではないかと思った。)
 とはいえ、この描写に感情移入してしまうのは、アイリッシュの書き方というか視点の置き方にもあるのであって、とことん男の内面に沿っていながら(情報は彼のところからしかとれない)、神のごときところを崩さないので、「作者」の姿が現れないところ。こういう限りなく一人称に近い三人称という文体が効果を上げている。
 だから、ふとこの主人公に近すぎる視点を批判する立場に自分を置いてみると、このストーリーは成り立たないよなあ、ということになる。すなわち「第一の事件」が発覚すれば、もっと早くもっと直截的な追及が主人公のところにいくのに、それがないのはなぜか。「第二の事件」「第三の事件」のあと、主人公が捜査の対象にならないのはなぜか。こんなところを気にすると、ラストシーンも見当がついてしまう(まあ、20年以上経過してからの再読であるということもあるが。もちろんストーリーは全部忘れていた)。
 そんなところは、作者も自覚していたのか、舞台は1915年前後のニューヨーク。出版されたのは1950年だから、一世代前の事件にしていた。そういう時代であれば、上記のようなニューヨーク市警の不備もありえたかも、と説得可能であるとみなしていたのかな。
 驚くのは、ここに書かれた不倫(大酒による一夜の失敗だが)とその後の夫婦関係の在り方が、今でも起こりそうなこと。そして、1915年前後の市民生活が、21世紀の今でも似ているようであること(結婚して実家から独立。友人のいない場所に転居。自分の意思で容易に転職。ナイン・トゥー・ファイヴの勤務形態などなど)。