odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

トーマス・マン「ベニスに死す」(岩波文庫) 老いたロマン派の芸術家は若く美しい芸術の神ミューズを絶対に捕らえられない。

 高校生の時に「トニオ・クレーゲル」と併録された新潮文庫で読んだが、なんだかよくわからなかった。それ以来なので四半世紀ぶりということになる。一時期はマンの作品をよく読んだが、その緻密さに驚かされる一方で、なかなか作品世界の中に入っていけないもどかしさを感じたものだ。それはこの小品でも同じだった。とにかく物語が進まない。主人公がベニスに着くまでに40ページかかり、それで全体の3分の1にあたる。その後も、主人公アッシェンバッハのモノローグが延々と続いていく。読んでいて気づいたのだが、主人公が思慕を寄せるポーランド貴族の少年タッジオはこの小説の中でまったくしゃべらない。アッシェンバッハはドイツ人で、タッジオはポーランド人。それぞれの言葉を解さないことがその原因になる。だから、普通の意味での交流はここにはない。タッジオを眺める視線と、それによって動く感情だけしかない。(だからヴィスコンティが映画化するにあたり、アッシェンバッハがさまざまな人と芸術論を交わすという原作にないシーンを加えなければならなかった。)
 この構図というのは、ロマン派(特に後期ドイツロマン派と音楽の世界で語られるもの)の特徴を端的に現しているものといえる。主人公アッシェンバッハは初老の作家という設定であるが、それはそのままロマン派の芸術活動を象徴している。ゲーテあたりのころから始まったロマン派の芸術活動も100年を過ぎて爛熟しきっていた。もはや新しさを生み出すことができなくなっていて、最後の炎を上げているような時代。そこにあるのは、停滞感と疲労感。同じ場所では何も作り出せず、他に出かけて刺激を受けなければならなくなっている。(この状況はそのまま「19世紀」という時代を象徴しているのだろう。作品発表1913年直後の第1次世界大戦でドイツやオーストリア、ロシアなどの「帝国」が消滅する。)
 タッジオは芸術ミューズの神。彼は若く美しい。しかし気まぐれである。芸術家の言葉を解しない。そして捕まえようとする手を振り切り、芸術家を翻弄する。芸術家は彼の姿を見ることはできるが、絶対に手に捕まえることができない。永遠の憧れであり、気ままに翻弄されるだけである。
 ロマン派はそのようなものとして芸術をみてきた。「ベニスに死す」に描かれているのはロマン派芸術の文化史。あまり記憶していないのだが、この後のトーマン・マンはこのロマン派的な芸術観を戦争の後、変えていったのではないかしら。この後に書かれた「魔の山」(1914年から草稿作成)では、この小説とは異なる芸術観になっていると思う。まあ、どこかでそういう評論を読むことがあるだろう。
 つい最近(2005年)なくなったスーザン・ソンタグは「隠喩としての病」(みすず書房)で、「ベニスに死す」を取り上げている。ここでの視点は、文学にどのように病気が扱われ、そこに「病」を人がどのように見ているかを考察したものだ。19世紀の主なる病は「結核」だった。20世紀になるとそれは「ガン」に変わる。「ベニスに死す」は珍しく疫病であり、「コレラ」だった。病に侵される都市というのがこの小説の背後にある。最初、アッシェンバッハがこの都市に到着したときに、検疫船が船内をチェックしていたということがさりげなくかかれる。そのあと、無風になった都市のうだるような暑さと瘴気がかかれ、まず動物が倒れるところがあり、都市が消毒されていく。コレラはインドで発生したのだが、それがアフガニスタン、ロシア、ハンガリーを経由して地中海に到着し、まずベニスに訪れたとされる。これは当時ドイツではやった黄禍論を象徴しているのかもしれない。また、病が蔓延していく様子とアッシェンバッハが衰弱していく過程が一致するように書かれていて、上記の芸術の衰弱を象徴するものとして病が使われている。
 図式化すると、大状況として「疫病の蔓延」とそれに翻弄される人々(ここで旅行者とホテルの人しか現れないが)の姿があり、中状況としてアッシェンバッハとタッジオの心理劇があり(アッシェンバッハからの一方的な同性愛しかないが)、小状況としてアッシェンバッハの芸術観がある。これらが組み合わされながら物語が進んでいく。そのさじ加減というか、微妙な状況の出し入れがあり、そのうまさに驚くことになる。
*ここまで大きな大状況を書けるのは三人称を使っているため。一人称では視界と行動が制限されるので、こういう大状況を示すには主人公に新聞を読ませたり、別の登場人物に語らせたりしなければならない。それは小説の細部を肥大させ、冗長なものにすることになりかねない


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 ブリテンがオペラ化している。ベッドフォード指揮、ヒコックス指揮のが入手可能みたい。

  

 もちろん、ヴィスコンティの映画も。