odd_hatchの読書ノート

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日本古典「どちりな きりしたん」(岩波文庫)

 現代風に読めば「ドクトリーナ・キリシタム」。キリスト教の教義書、とでもいうことになるのだろうか。師弟の問答で書かれているので通常は「教義問答」と訳されるとのこと。クラシック音楽経由でラテン語を見聞きする(勉強ではない。ミサ曲CDには必ずラテン語歌詞が付いているから)機会があるので、特殊な用語のもともとの言葉がまったくわからないでもない。しかし、江戸のはじめ1600年前後の日本人の読み書きの仕方と、耳の持ち方、そして来訪した宣教師の生まれたところ(多くはスペインとポルトガルの人)の発音、などがからまって、日本語にならなかった言葉がなんなのか見当がつかないことが多い。たとえば、ガラサ=grace、オラショ=oratrio、はらいそ=paradiseなどなど。
 この時代のことは堀田善衛「海鳴りの底から」(新潮文庫:品切れか。流通しているのは朝日文庫)に詳しい。堀田善衛がいうように、このころの日本人、ある階級の人々の知的水準というのはきわめて高い。これも当時の最新思想にもかかわらず、当時の言葉に移し替え理解できる水準にある。もしかしたら、現代の教義書よりもこちらのほうがわかりやすく書かれているかもしれない。昭和初期に翻訳されたハイデッガーフッサールなぞ読めたものではないからね。
 たしかに、一般民衆向けであることを目指しているので、仏教書に比べると敷居は低いのかもしれない。教義の中心については多くは書かれていなくて、祭儀や日常の立ち居振る舞い、道徳のことのほうが多く書かれているのにはそれでよかったのかなあとうなってしまう。
 九州の武家のために、戦や賦役のときには日曜のミサにでなくていいよとなっているのはおかしかった。妊娠中や乳幼児を持っている女性はからだのことを考えてミサにこなくていいよというのは当時の日本の風習からすると画期的なはず。教会内のヒエラルキー(それは信仰が深く厚くなるにつれてのものであり、職業的な宗教者である人にだけしょうじるものである)はあるが、世俗の世界のヒエラルキーには一切の考慮を持たないというのも画期的。虐げられた人、差別によって苦しんでいる人にとっては、たしかに福音といえる。厳しい現実があり差別と虐待が日常であったからこそ、当時の信者のなかに棄教しなかった人がいたというわけだ。その一方で、遣欧少年使節の一員や天草の乱の中心的な人物が棄教する事態もあった。
 全体として、遠藤周作(@「沈黙」)がいったように江戸時代にキリスト教は根付かなかったといえるのかもしれない。一方、たとえば韓国では日本の支配下にあるときにキリスト教徒が増加したのだが、その違いはどこらへんに理由があるのかしら。T・K生「韓国からの通信」(岩波新書)を読むと、教会が労働運動や学生運動で弾圧される人たちを救う活動をし、牧師が逮捕・拘留される事態もあったというのがひとつの理由になるかも。
 後半には、結婚のサクラメント秘跡もしくは聖餐式)の話がでてくる。そこでは一夫一婦が正しいとされ離婚を認めないと師が申す。そうすると、それは理不尽なことと弟子が反問する。それはとてもしつこいもので、4ページに渡り延々と問答が行われる。逆に言うと、当時の日本では離縁―再婚はごく当たり前のことで、一生添い遂げるということは美徳でも何でもなかったということがわかる。たしかに、娯楽のない時代で、誰と結婚するかというのは大きな問題だったのだろう。しかも労働は厳しかったのだし。あるいは、死別して残された女性の生活を保証する制度として、再婚を奨励していたのかしら。
 最後に日常生活のおける心がけが語られ、飢えた人渇いた人に施せ、病人をいたわれ、旅人に宿を貸せ、という倫理が語られ、それはすなわち共同体を維持する論理と一致している。

 森安達也「近代国家とキリスト教」(平凡社ライブラリ)によると、ルター・カルヴァンらの教会批判が起こり、彼らは教理問答書を作成して教宣に使った。1529年にルターが作り、画期的な布教と宣伝手段になった。カルヴァン派も作ったが、カソリック教会もこれらの対抗のために1566年に「ローマ教理問答」を作った。他にもあったらしい。「どちりな・きりしたん」は1592年にローマ字版が天草で印刷されたが、原著は確定されていない。どうやらこの国にきた宣教師によって編纂されたものであるらしい。このタイムラグは当時の交通・情報伝達の手段を考えるときわめて迅速であった。