odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アガサ・クリスティ「そして誰もいなくなった」(ハヤカワポケットミステリ) クリスティの早口の語りと場面の急速な転換が「書かないこと」や「書いていないこと」を隠している。

 四半世紀ぶりに再読。1976年にハヤカワミステリ文庫が創刊され、その第1回配本のうちのひとつだった。アイリッシュ「幻の女」、クイーン「ダブル・ダブル」ロス・マクドナルド「ウィチャリー家の女」などと一緒。いずれもポケミスでは入手難(当時周囲にポケミスを置いてある本屋はなかった)だったので、いろいろ買い込んだ。
 有名作だから特にストーリー紹介をしなくてもよいだろう。匿名の招待状が届き、10人が孤島を訪れる。招待者U.N.オーエンは登場人物のいうとおりunknownであって、正体不明。しかも蓄音機が突如動き出して、10人への告発が行われる。釈明、反発、居直り、沈黙などなど各人がそれぞれの反応を見せる。そして一人ずつ殺されていき、全員が死亡する。困ったことに、最後に死んだ人にも人為が働いているのがわかり、犯人ではないことがわかる。一体誰が殺したのか。
 再読の感想のひとつは、語り口が非常に早いということ。細かくチャプターわけされていて、最長で4ページ、最短は200字くらい。この加速された語り方は映画的だ(実際、クリスティ原作ではすぐに映画化されたひとつ)。クリスティの他の作品では語りはもっとゆっくりで長いので、彼女の作品の中では「異色」だった。登場人物10人の心理描写をしようとするための手段であるのだろう。それよりもむしろ、この語り口によってでないとあのストーリーは作れなかったと感じる。クリスティの早口の語りと場面の急速な転換が「書かないこと」や「書いていないこと」を隠しているのだ。この種の「閉ざされた山荘」あるいは「嵐の孤島」テーマの最近作では、ニコラス・ウエイドの「髑髏島の惨劇(文春文庫)」があるが、これもまた短い章の積み重ねと加速された語りが使われていた。一方、笠井潔の「オイディプス症候群」(光文社)では逆に語りを遅くすることでこのテーマを書いていた(待ち伏せの数分の間に、フーコーの権力論50ページを挿入するような)。
 「閉ざされた山荘」あるいは「嵐の孤島」テーマの創始であり典型であり究極でありとみなされるのだが(「そして・・」の初出は1939年)、でも1920年代の映画「グランド・ホテル」は無関係な複数人がからみあっていく話だったし、創始というのもどうかと。古い話なら「デカメロン」がペストを避ける男女が暇つぶしに互いに語り合うものだし、福音書の「最後の晩餐」に集まった連中もイエスに感銘を受けたという点を除けば知り合いではなかったし(ただし数名は兄弟)。まあ、ポーの最初のミステリーはパリを舞台にしていたが、この街自体が見知らぬ他人が偶然に集まっているものであった。そう考えると、「都会」こそが「閉ざされた山荘」あるいは「嵐の孤島」なのだろう。