odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

ニコラス・ブレイク「野獣死すべし」(ハヤカワ文庫)

推理小説家のフィリクス・レインは、最愛の息子マーティンを自動車のひき逃げ事故で失った。警察の必死の捜査にもかかわらず、その車の行方は知れず、半年がむなしく過ぎた。このうえは、なんとしても独力で犯人を探し出さなくてはならない。フィリクスは見えざる犯人に復讐を誓った! 優れた心理描写と殺人の鋭い内面研究によって屈指の名作と評される、英国の桂冠詩人C・D・ルイスがブレイク名義で発表した本格傑作(裏表紙より)」


 普通の探偵小説風にプロットを書くと、意地悪で自尊心が強く他人をいじめるのが大好きという自動車修理工場の経営者ジョージがストリキニーネを服毒して死亡した。この毒は特殊な異臭をもっているので、食事に混ぜるとたいていすぐ気付く。調べるとにおいのきつい強壮剤に混入しているのが見つかった。さてこの男だが、家族にとっても周囲の連中にとっても厄介者だった。もともとは1929年の不況で一文なしになったのを現共同経営者が救ったのだが、この共同経営者はいつでもジョージと契約を解除してもよいと考えている。経営にはノータッチで、しかも共同経営者の妻と不倫をしているから。またジョージの祖母というのも権威主義志向で、息子ジョージの方を持っては妻とその息子を支配している。妻は15年間ジョージの家庭内暴力を受けていて、神経はずたずた。繊細な息子フィルも父を嫌い、母に同情しているが、祖母の支配のために心を折られている。さらに、この家族には奇妙な同居者がいて、まずジョージの現在の不倫相手である妻の妹、彼女は売れない映画俳優。また映画界を舞台に探偵小説を書くという名目で、作家が映画俳優にくっついてきた。この作家はフィルに同情的であると同時に、どこか怪しげな雰囲気を漂わせている。この事件に挑むのは、スコットランドヤードの敏腕警部ブロイトと名探偵ナイジェル・ストレンジウェイズの二人組!
 これじゃあ、全然読みたいとは思えない「館もの」になるよな。それこそ1910年代の探偵小説だ。
 ブレイクの趣向の面白さは、この家族から最も離れた人物を主人公においたこと。すなわち探偵作家フェリックス・レインは半年前に交通事故で息子マーティンを失った。警察の調査では犯人はみつからない。そこで、彼は独自に捜査し、法によらない処罰を決行することを決めた。前半3分の1はフェリックスの筆による日記。ここには優れた頭脳(?)による推理と真犯人に近づくまでが克明に描かれている。作家が自動車修理工場経営者ジョージに近づいたのは彼が息子殺しの犯人であるからだ。半分のところで事態が逆転するのは、隠匿していたはずの日記がジョージに読まれ、逆に脅迫されてしまったこと。その直後に、ジョージは上の事態のように殺されてしまう。という具合に、事件の語り方を変え、ある視点(この視点の持ち主の観察眼の正確さや感情の揺れ動きなどに読者はすぐに感情移入できる)からプロットを再構成する。この書き方が非常に面白いのだった。
 後半は、ナイジェルによる捜査。警察組織に無関係なので、警部の尋問に立ち会い、ときどき質問をはさむことだけ。そのために、記述のほとんどはカジュアルな状態における会話となる。この会話の見事さ、家族の小さな事件(打ちひしがれた妻が祖母に対抗できる自立心を獲得するとか、その祖母が家の権力を失って呆然とするとか、子供フィルが活発になる様子とか、不倫に対する考えにいろいろな意見が出てくるとか)を点描していく様はよみごたえがある。とはいえ、大げさなアクションも事件もなく、ほぼ日常で起こることが的確な心理描写とともに描かれる。おそらくこれが「英国文学」なのだろうなあ。ドスト氏のような巨大な人物と思想の造形なぞなく(なにしろ自由と民主主義は長年かけて確立しているのだから、対抗思想を持ち出すことは不要)、劇的な事件もおこらない。そのかわりに館の連中のごく普通な感情や意見を記述していき、人間観察の妙をみいだす。英国文学というと、ジェームズ・ジョイスバージニア・ウルフのような実験的な作風の持ち主(ふたりとも「英国文学」のレッテルを拒否しそうだ)かモームのような奇矯な趣味の持ち主で、こういう伝統的な英国文学はあまり知られていない。一方、1930年代の英国探偵小説黄金時代の作品はおおむねこの伝統的な作風で書かれているものだから、そのギャップにとまどうことになる。これとかヒルトン「学校の殺人」ミルン「赤い館の秘密」メーソン「矢の家」、ノックス「陸橋殺人事件」、フィルポッツ「赤毛のレドメイン家」など。クイーンやヴァン・ダインを期待すると肩透かしにあうからね。ここでも派手なトリック、意外な犯行動機、アクションなんかはなく、綿密な犯行準備とその動機に驚きましょうということになる。作中でもシェイクスピア、トーマス・ハーディ、その他の作家と作品がぽんぽんとでてくるので、ある程度の教養をもっていることが要求されます。そういう点では、低い評価をするのだろうな。自分は「小説」の完成度というか文章の読み応えでもって高評価です。
 あと注目は子供への視点かな。いじめられっ子フィルが初めて個人の価値を認めてくれたフェリックスと出会うことによって、自立と責任を持つようになる様は感動的です。江戸川乱歩「世界短編傑作集 5」創元推理文庫)にはベイリー「黄色いなめくじ」1935、パトリック「ある殺人者の肖像」1942、ヘクト「十五人の殺人者たち」1943など子供を主題におく作品が収められているが、これも同時期であることに注目しておこう。
 自分のもっているのはハヤカワ文庫の初版なので、表紙が違う。