odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

マイケル・ギルバート「捕虜収容所の死」(創元推理文庫) 1943年7月の北イタリアにある捕虜収容所の脱走計画と連続殺人。欧米の士官や兵士は収容所の中でも戦闘を続ける

第二次世界大戦下、イタリアの第一二七捕虜収容所でもくろまれた大脱走劇。ところが、密かに掘り進められていたトンネル内で、スパイ疑惑の渦中にあった捕虜が落命、紆余曲折をへて、英国陸軍大尉による時ならぬ殺害犯捜しが始まる。新たな密告者の存在までが浮上するなか、果して脱走は成功するのか?英国ミステリの雄が絶妙の趣向で贈る、スリル横溢の独創的な謎解き小説。」
捕虜収容所の死 - マイケル・ギルバート/石田善彦 訳|東京創元社

 まず背景がユニーク。1943年7月の北イタリアにある捕虜収容所。連合軍の反撃が始まり、イタリア上陸作成が遂行されつつあった。捕虜収容所には英国軍の捕虜が収容されている。彼らは看守を買収したり、トンネルを掘ったりして来るべき開放の日を待っている。連合軍の反撃は喜ばしいと同時に不安でもあって、イタリアが反撃に転じる場合、ないし降伏する場合は捕虜をドイツ軍に引き渡す恐れがあった。規律の緩いイタリア軍の収容所であれば、上記のような暗躍もできるのであるが、ドイツの収容所であれば生還しがたいといえる。またろくな装備、携行食料、地図もないまま北イタリアの山中に潜伏するのもリスクであるし、アドリア海の対岸には共産党軍の脅威もある。という具合に、収容所の中にいても世界情勢は緊迫しているのであった。途中、連合軍のシチリア上陸が報じられ、捕虜たちは脱走計画を一層推進する。カウントゼロにむけて緊迫感が増していく。
 さて、収容所の中に目を向けると、まずは厳格なイタリア軍大尉が収容所を切りまわしてる。どうやら彼は捕虜の中にスパイを雇って、反乱の情報を探っているらしい。収容所はたぶん5棟くらいあって、英国軍の階級とおりに組織化(責任者、参謀、大隊、小隊など)されている。収容所の捕虜の扱いに関してはこの責任者が所長と交渉する。それとは別に捕虜の中の行動派が結集し、選挙(かな)で責任者を選出して脱走委員会を組織している。主要メンバーはC棟に集まり、炊事場におおがかりなトラップドアをもうけて(4人がかりでないと開かない)、トンネルを用意していた。もちろん脱走計画に無関心な連中もいて、ラグビーをしたり演劇の練習をしていたりもする。(おもしろかったのは赤十字経由で定期的に捕虜たちに差し入れが届けられていること。この国の軍隊は捕虜に物資援助することなど行わなかっただろうなあ。)
 謎をはらむ事件は複数起こる。4人がかりでないと扉を開けないトンネルの奥で見つかった落盤死体。死者はスパイと目されているが目的は? トンネルとは別の脱走の試みがすぐに頓挫したのはなぜ? その他にも捕虜たちの動向は看守に漏れているのではないかという疑惑がある。看守はドイツ軍情報将校が捕虜の中にいると漏らした、ではいったいだれが。こんな具合に多くの謎がある。自分も含めて多くの読者は、収容所の中の出入りを監視されたトンネルの中の他殺死体という「密室」に興味をフォーカスしてしまう。その謎解きを期待するとがっかりするので、他のいくつもの謎に注目しよう。
 またタイムリミットまでに計画を達成することができるかというサスペンス。ひとつは処刑されることになった捕虜の奪還であり、もうひとつはイタリア降伏後、ドイツ軍に引き渡されないで収容所を脱出すること。大状況が刻々と説明されるので、この緊迫感も大したものだ。ここで映画「大脱走」「第17捕虜収容所」あたりの収容所・監獄脱出映画を思い出すだろう。
 さらに収容所という異常状況の日常描写にも引き込まれる。大岡昇平「俘虜記」高杉一郎「極光のかげに」その他の収容所文学はあるものの、この小説のイギリス人のように反抗・脱走を試みるという描写はない。戦闘に負けるとこの国の士官や兵士は意思疎漏するらしいが、欧米の士官や兵士は収容所の中でも戦闘を続けるというわけだ。「大脱走」でも英軍兵士や士官が体力を維持するための運動を欠かさないという描写があったはず。ここでもラグビーだのバスケットボールだの運動する捕虜の描写がでてくる。さらに、イギリスの階級制度もかいまみえて、士官はたいてい貴族かオックスブリッジの私学の出。貴族ないしブルジョア、エリートの出身であるということで、彼らは仲間意識をもつようなところ。このあたりの英国気質が興味深い。
 このように、謎解き・サスペンス・冒険(最終2章はドイツ軍を避けながら山岳地帯を放浪する)・収容所その他いろいろな趣向を取り入れたとても贅沢な小説。さらに本筋に関係なさそうな描写が、のちにぴたぴたとストーリーに絡まっていくところも見事(ラグビーや演劇準備に熱中する捕虜の話がのちにあんなに重大な謎解きに絡んでくるなんて)。
 残念なのは他の書評にもあるように、最終2章が蛇足と思えるところかな。とはいえ、そんなことは瑕疵にすぎず、たぶん最初の読書だと「密室」にだけ注目する読み方になるから、時間を空けて2度目を読んだほうがよい。2回目のほうが満足度が高まる。1957年作。植草甚一がもっとも好んでいたミステリ作家(「ミステリの原稿は夜中に徹夜で書こう」)。邦訳はいくつかあるけど出版社が異なるので、集めにくそう。