odd_hatchの読書ノート

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丹生谷貴志「天使と増殖」(朝日出版社)

 1985年から数年間、朝日出版社から「週刊本」というシリーズがでていた。コンセプトは企画から出版までを極めて早くしようというもの。雑誌のような流行を追うのではなく、ある程度の問題をもって、いろいろ考えをめぐらしているものに2時間ほどインタビューあるいは講演をしてもらい、テープ起こしをした原稿に手を入れて、新書形式で刊行するというものだった。深みよりも速さ、重厚さよりも軽薄であること、検証よりも発想、そんなことがこのシリーズの特徴だった。おりしも「日本はスゴイよ」「トーキョーは世界の最先端」「ニッポン企業の製品は最高」みたいな風潮があって、なんとなくそれに似ているなあと思った。新書にはでてこない現代思想の話題が多かったので、さいしょのうちはしっかりと追いかけていたが、そのうち刊行スピードが落ちてきて、バブルの崩壊と同じころにいつのまにか終了してしまった。いったいなんだったのだろう。

 さて、ここではものの所有に関するお話。とはいえ、しっかりした議論は最初の丹生谷貴志のものと最後の多木浩二のものだけ。間は当時の有名人(とはいえ「朝日出版社」の有名人なので、赤塚富士夫、ねじめ正一高橋源一郎、川崎昇、伊藤比呂美、宮迫千鶴、群よう子、いがらしみきお、などなど)のもの自慢。私はこんなものを持っていて、それが特別な意味を持つとかいうようなたいていはつまらないエッセイ。
 丹生谷貴志は、所有するというのは精神が物を所有することで、キリスト教はいかにものの所有をなくして精神が自立するかをめざしているのだが、精神と物が完全に分離し、精神=神となったときに、ものは神と同等の完全性を獲得することになり、それは困ったことになった、ローマ教会とフランチェスカンの中世のいさかいは所有に関するもので、たとえばエーコ薔薇の名前」の背景の思想状況はそこにあったのだ、この問題は解決できないままでいるよ、ということを書いている。そのとき、天使というのは所有の純化されたもので、所有の破壊をもくろむものなのだよ、デーモンは所有そのものなのだよ、という神学論争も紹介している。
 多木浩二の論点のなかで面白かったのは、日本の家屋において、ものは現れたり消えたりしている(布団を押し入れにしまう、食事のときだけちゃぶ台を組み立てるなど)。それはものの実在感を希薄にしている。日本人の空間は身振りから生まれるもので、その都度意味が生成される。それは物が充満した西洋の空間とは異なる。それから西洋といっても、フェティシズム的なものの所有あるいは空間を充満させるためのものの所有ができたのは一部の貴族、王侯だけ。だれもが物を所有できるようになったのは、19世紀以降。20世紀になると、ものを消費することから記号を消費することに変わった。記号の消費ということは日本の伝統にあっていて、日本人が「ポスト資本主義」を受け入れることがたやすい。
(それでいて、この国の知識人その他は本、レコードなどを個人所有することに熱心なのはなぜかしら。正倉院みたいにときどきオタク趣味満載のコレクターが現れるのはどうしてかしら。安土桃山時代に金銀の輸出で獲得した財で、茶道具を大量に購入したのはなぜなのだろう。)

週刊本 (36) (週刊本 36)

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