odd_hatchの読書ノート

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岡田節人「細胞に刻まれた未来社会」(朝日出版社)

 岡田節人は京大で細胞学を研究していた。当時の細胞学者としては最も名の知れた人だった。この人は筆の立つ人で、ブルーバックス岩波新書に各種の啓蒙書を書いていたからかもしれない。いくつか読んだことがある。1985年に退官した。その直後に、インタビューアー・田原総一郎で彼の話を聞く。

 岡田が350年続く作り酒屋の息子で、親は若いころ(昭和初期)に博物学に凝り(というより珍奇な鳥を買っては自宅で飼っていたいたとのこと)、晩年には俳句と骨董に凝り、どうやらものすごいコレクションをしていたなどという話はここでしか聞けないだろう。戦前の博物学者の話は、荒俣宏「大東亜科学きたん」(筑摩書房)、「異都発掘」(集英社文庫)、「楽園考古学」(平凡社ライブラリ)が参考になったと記憶する。あと、敗戦直後の理学部に入学したとき、科学は好きだが数学がだめなので、生物学にいったというのも笑える。そういう落ちこぼれの集まり(優秀な連中は理論物理にいったのだろう)で、たいてい田舎の落ちぶれた家の息子かスポーツ選手しかいないというのは堀田義衛「若き日の詩人たちの肖像」にも似た話があった。
 で、細胞の研究、とくに細胞を接着ないし離反する物質としくみの研究に注力する。細胞の面白いのは、個体や組織の中では決められた役割を果たしているのであるが、人為的に分離すると個々に勝手な活動をとる。割と原始的な動物とか植物だと、一細胞から個体にまで戻るのもあるが、進化の後に現れた複雑な構造の動物だとそのような能力は失われている。とはいえ、個々の細胞も自然と集まって組織のような振る舞いを見せることもある。このような振る舞いと発生における分化あたりのことはなかなか分子生物学のアプローチでは説明できないので、この岡田先生もなにか巨視的な説明が必要なのではないか、と見通しを述べる。
 それに田原が乗って、近代社会批判とか要素還元主義批判を持ち出し、近代社会や資本主義の限界が見えているから、このような細胞の社会モデルは有効かもしれないという。時代は日米貿易摩擦で、もうすぐバブル経済で、ビジネスマンは「24時間戦えるか」とTVではっぱをかけられる時代。アメリカの経済が沈滞して、この国だけが調子がいいから、こののちは日本型経営がいいよとか言い出したころだ。まあ、この言説も無理があって、田原はこの国の協調性や共同体が優位になる基本原理という一方、この国には個性や独創性がないといって、この二つの矛盾に気が付かない。それは立花隆/利根川進「精神と物質」(文春文庫)でも起きていたこと。こちらのほうがより能天気(それは岡田も同じ)。まあ、あの時代を思い出すのにはよいかも。
 さて、ここからは妄想で、例によってこの本では生物や細胞の振る舞いを擬人化したり、人間の社会にあてはめようと拡大解釈するという誤りをしているのだが、この国の「社会」という言葉の多義性にどうも足をすくわれてしまうみたいだ。societyとcommunityは明確に分けられているとおもうのだが、この国のことばだと「社会」になってしまってその差異に無頓着になっているような。生物や環境のcommunityと人間の集団のsocietytの違い。