odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

マルティン・ハイデッガー「言葉についての対話」(平凡社ライブラリ) 本人と思しき「問う人」が「日本人」と対話する。なにか重要なことが語られているようだがぼんくらな自分にはわかりませんでした。

 本人と思しき「問う人」が「日本人」と対話するという形式の本。この「日本人」のモデルは手塚富雄である、九鬼周造である、などなどいろいろ言われている。1920年代のドイツのハイパーインフレ時期には、おおくの学生がドイツに留学し、何人かの学生がハイデガーの講義を聴いているので、特定のモデルを決めることもないだろうし、ましてそこに書かれた「日本人」のことばやそのかんがえがこの国の考えを代表するものであるとも考えることはないだろう。たぶん、ハイデガーが自分の言語を考えるときに、自分の使う言葉とはまるで違う言葉と対比することで、自分の立場を明らかにするための方策だったのだろう。それこそこちらの話をまったく理解できない「宇宙人」と話をして、ずれとかいらだちとかもどかしさとかを感じつつ、こちらの考えを検証していくような。
 同じ作者の「形而上学入門」を読んだ時にも感じたのだが、徹底的に考えるということの凄みがここにあって、その徹底ぶりには圧倒させられる。結局、「読んだ」といっても文字面をなぞったに過ぎず、彼の考えを理解することすらかなわないのだが。
 ともあれ大変なのは、頻出する彼独自の用語であって「二つ折れ」にしろ「言い」にしろ、そこに圧縮された概念というか彼の込めた意味合いのというのが理解しがたいことであり、おなじ言葉を使いながらも、どうしてそこまでの深みに達するのかを体験するのは難しい。
 もうひとつは言葉に関する議論でありながらも、ひたすら寡黙でしかも「空」(この東アジアの概念をハイデガーはわれわれのようには理解していないようだが)にいたるということ。この対話の静けさというのは、そこらの対話編とは一線を画している。たぶん(ここでも)、プラトンの対話編のような複数の人物に問と答えの繰り返しから、なにか新しい認識に至るというような仕掛けをもっていないのだ。
 手ごわい。なにか重要なことがそこに語られているようだが、そこに入ることはできなかった。
 しまった、初出年を記録するのを忘れた。たぶん戦後の著述。