odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

渡辺一夫「人間模索」(講談社学術文庫) 「人間というものが、狂気にとりつかれやすく、機械化されやすく、不寛容になりやすく、暴力をふるいやすい」という認識が出発点。

 「人間というものが、狂気にとりつかれやすく、機械化されやすく、不寛容になりやすく、暴力をふるいやすい」という認識が出発点。言い方を変えると「天使になろうとして豚になりかねない」。なるほど、狂気についてはさまざまイデオロギー(宗教であったり、社会改革運動であったり、妄想であったり)にかぶれることであるだろうし、機械化というのは主義主張の機械になってしまうことで、不寛容になりやすいのは古くは聖バーソロミューの虐殺であるし近年ではいくつかのテロであるかもしれないし多くのナショナリズムであるのだろうし、暴力によって流された血の量とそれを目前にした嗚咽とか号泣とか嘆きには書き立てるいとまがない。それくらいに、人間が陥りやすい傾向によって多くの不幸がおきてきたのだった。その克服については、いろいろなことが試みられていて、新しい試みがなされるだろうけど、とりあえず人間がそのようなものだ、そして個々の人間は決して聖人でも英雄でも仙人でもないことを認識することを心に留め置くところから出発しないといけない。小田実開高健のような関西出身者であれば、人間ちょぼちょぼでいいかげんであるのだよ、そこから物事を眺めてみい、それほどたいした違いはあらへんで、とでもなるのだろう。重要なのは、そのような認識と同時に、人間はうぬぼれや思い込み、全能感を持ちやすいものだから、頻繁に自己批判や自己反省をしないといけない。自己批判省察を持っている人も、慣れとか他人の賞賛とかで忘れるものだから。たぶん著者の考えでは、人間と動物をわけるのは、自己批判や自己反省(まあ、時間性を認識するというのが前提にたっているのだが)をできるか否かにある。
 ここらへんの人間を地に落とさせる視点というのが気にいった。哲学とか思想とか、そういう書籍だと同じことを主張するにしても、けっこう大上段にかまえて、どこか悲壮みというか、孤高を気取るというか、世界の真理に一歩先んじて到達しているものが後から来るものに訓辞しているというか、そういう自分を一段上におくようなもののいいかたをするからねえ。こちとら地べたに近いところで、どたばたあがいているのであって、彼らのような高みに行くのにはなかなか大変なのだよ。

 と、まあ、こんな感じ。もちろん著者はフランスの中世文学の泰斗であって(この人の訳した「パンタグリュエルとガルガンチョワ」を読み通すのはなかなかたいした苦労をしたものだ)、でてくる事例や引用はモンテーニュだのパスカルだのエラスムスなどであって、素人には手ごわい。とはいえ、たかだか数百年の間に人間の心性が劇的な変化をとげたわけではないので(そうであれば戦争と飢餓と貧困は解消しているはずだ)、彼らの言葉もいまの読者に通じてしまう。
 後半は、不幸や幸福などについて。不幸というのは生命の恒常的な営みが一時中断され、それを客観視したときに得られる感情だ(なるほどものごころついていない幼児は落石で車内に閉じ込められても絶望しない)とか、生まれたときから死を宣告されているのは不幸ではあるがたいていは日常生活の俗事で忘れているとか、生きていることは無数の障害に出会うことだとか。こういう認識は当たり前(ノーマル)のことだとおもう。不幸はあるものだし、ときとしては死にいたることもあり、まあそれは生物である人間にはしょうがない。とはいえ、保障とか公共資本などのことを考えるときに、なぜかノーリスクを要求することがおきているようで(インフルエンザを入国させないように監視しろとか、狂牛病の危機がないように輸入牛は全頭検査しろとか、ニセ医学はどんながんでも治すという治療法があると吹聴していてそれに莫大な金をだすとか)、ちょっとそれは違うよな。
 著者の考える「教養」は、「他人を困らせたり、窮地に陥れないこと」「思いやりのあること」だという。なるほど相手(議論、交渉、商売など)において相手を窮地に陥らせると、暴力を振るわれたり恨みねたみでこちらの損害をもたらせたりする。人間を守ることが倫理の第一歩で、「教養」はこの倫理を実践する人間の精神的態度だという。著者のいうように、このような倫理としての教養を身につけることは難しい。
 また狂気というのは、自分の思い込みを反省できず、そればかりか主義主張の機械となってしまうこと。機械化された人間は自分を正義や絶対と思い込み、それを他人に押し付け、従わないもの反対するものに危害を加えたり財産を侵害したりする。著者がいう「狂気」は笠井潔の「党派観念」であるだろうし、「狂気」と名づけたほうがより多くの現象に共通していることを見えやすくするのではないかな。その代わりに「狂気」が病気とみなされて忌避・嫌悪され、しっかりとした反省や検討ができなくなりそうな危険もあって、悩ましい。いずれにしろ、狂気や党派観念は現代的な問題だと思う。人間が機械化されないこと、党派観念にこり固まらないこと、そこから抜け出すことなどは重要だ。
 重要なのは、ここに収められた文章が戦後すぐから昭和30年代にかかれたこと。戦前にすでに文学部教授になっていたものの、自由に文章を発表することができなかったというのがこれらのエッセイを書かせた動機にあるだろう。自由や平等などを啓蒙する意図もあるのだが、同時に自己批判や自己反省という読者に水を浴びせて冷静になれ、人間は間違えやすいものだというのは著者はしたたかで、その考えは奥深い。