odd_hatchの読書ノート

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渡辺一夫「ヒューマニズム考」(講談社現代新書)

 サルトルが「実存主義ヒューマニズムである」というと、ハイデガーはそうではないというのであったが(どちらも読んでいない)、ではヒューマニズムは何かというと判然としない。為政者も革命家も自分が「ヒューマニズム」であることは否定しないが、ときとしていずれの側も非道なことを人々に行うことがある。古くは異端者の殺戮であり、党員の粛清であり、強制収用となずけて他人の財産を破壊・国家のものにすることなど。

 で、ここではフランスのユマニスト文学から「ヒューマニズム」(ユマニスムはフランス語読み)を考えようとする。著者によると、ユマニスムは平凡な人間らしい心構えのこと。とくに西洋にだけあるのではなく、どこの世界でも別の言葉で見つかることだろう。かつ、ユマニスムは思想なのではなく、考えや行動の元になる方法とか、著者のいう心構えであって、どこか固定された理想や夢そのものではなく、それを現実において実現しようとする意志というか望みであるとか、そんなこと。多くの「ではない」がついてしまうが、そういうふうにしか言い表せないことなです。だから、

「歴史がユマニスムによって作られないことは事実かもしれません。狂信のほうが、新しい歴史の展開の動力になるかもしれません。しかし、ユマニスムは、歴史を作ることを目的とはしていません。むしろ、歴史の流れに見られる「痴愚」や「狂気」を指摘して、悲惨な事態をなるべく少なくし、同じ愚挙を繰り返さないようにすることを願うだけでしょう(P53)。」

とうことになる。
 ユマニスムが依拠するのは、「それはキリストとどんな関係があるのか」という問いかけ。のちにはキリストが人間に変わる。その批判先となるのは、権力や財産を背景にして本末転倒した行為をしている人。現実をよくすることとは無関係の空虚な考えをして、それを批判するものを排除したり罪を与えたりするようなこと。あるいは自分の地位や財産の保護や拡大のために、他者の権利を侵害したり、財産を簒奪するようなこと。これは権力者やそれを支える人々に対すて向けられているのではなく、同時に権力批判を行う人々や集団、党派にも向けられる。なぜかというと、ユマニストの考えのもとになるのは、懐疑主義相対主義だから。懐疑主義は、眼前にあるものを十分に検討してより正しいものを探求すること(たんに「わからない、知らぬ」とつぶやくことではない)。相対主義は絶対と思われるものでも条件が変わると絶対ではなくなるという考えかた。(脱線すると、懐疑主義相対主義も行き過ぎるとおかしなことになる。過激な相対主義はいずれの言明も価値は平等、したがって真理はないとまでいう。これは誤り)。
 ユマニストの代表として、エラスムスラブレーモンテーニュの三人をあげる。ここで面白いのは、彼らの対比として、ユマニスムから出発しながら彼らと敵対する人を上げていること。すなわちエラスムスにはルター、ラブレーにはカルヴァンモンテーニュにはアメリカ新世界を侵略した人々。エラスムスとルター、ラブレーカルヴァンは当初は朋友、同僚くらいの間柄だったが、のちには決別し、後者の人々は前者を激しく批判した。後者の人々は宗教改革者の指導者であり、多くの人を抱えていたという立場がある。ユマニストからすると、彼らのやり方もまた問題があり(異端者と認定したものを殺すことは人間とどんな関係がある)。人は制度や思想の機械や奴隷になりやすい。それを著者は人間の「機械化」といい、あるいは「狂信」という。また機械(マシンやメカニズム)も人間が使うものであったはずなのに、人間が機械に使われることになってしまうという(ここはチャペックの問題意識と同じだ)。このような機械化や狂信に陥らない方法としてユマニスムが必要になる。弱いものではあるのだが。
 モンテーニュに関して追加すると(モンテーニュと彼の時代は堀田善衛「城館の人ミシェル」に詳しい)、同時代に新大陸の発見があった。そのとき、キリスト教を知らない新大陸の人々のほうが温和で友好的であり、キリスト教の精神を体現していると報告された。さて、キリスト教徒は神の教えを知らないこれらの人々をどう考えるのか。教義を知らないから人間ではないとするべきか、それとも。結局はローマ教皇によって「人間」と認定される。しかもより問題であるのは、神の教えを知るヨーロッパの人々が彼らに対し、傲慢で残虐な態度で臨んだことであった。モンテーニュはそれらの情報を知り、エッセイで(小声で)指弾する。
 こういうところが印象に残ったところ。異端者に対して不寛容で望んだ旧教会と新教会の人々は、不寛容で互いに相手に対したために、殉教者をだした。その存在が人々の結束をさらに強め、敵に対してより強硬に対するというエスカレーションを繰り返すことになった。これが克服されるまでに、膨大な人が死んでいる。生き残った人が社会を再建することにどれだけの苦労がかかるかということを考えると、不寛容であることは正しくない。ユマニスムが必要とされるゆえん。(政教分離が必要であるのは、世俗の権力や利権の争いが宗教の教義の争いにすりかえられ、争いが極端に強められるから。また、ここでは触れられていないが党や教会などの集団がなぜ個人を超えた力を持ち、人を狂信に導くのか、それをとめる方法はなんなのかも重要。16世紀のキリスト教の不寛容、20世紀の共産主義の不寛容、グローバル資本主義の不寛容はもっと考えられるべきなのだ。)

 澤井繁男「イタリア・ルネサンス」(講談社現代新書)によると、ユマニストは職業であるとの由。行政や商業などの書記などを行った。行政や商業が文書を必要としたときに、文字を読んで書けるという能力が仕事になった。法律家、医者に続く生産には携わらない職業が資本主義の勃興期に誕生したわけです。

 2019年秋に講談社文芸文庫で復刊されました。