odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

トマス・ナルスジャック「贋作展覧会」(ハヤカワポケットミステリ) 1945年の退屈な日々に文学部教授が書いた贋作探偵小説。

 訳者解説によると、これはトーマス・ナルスジャックの第1作。船乗り一家に生まれたが、8歳で空気銃の暴発で片目を失明。長じては文学部の教授に就任。シムノンを読み漁り、1945年の退屈な日々に贋作を書いた。楽しかったらしく、10編たまっていた。さらに同じくらいの贋作をつくり、21編の「贋作展覧会」を出版したのであった。大学教授が変名で探偵小説を書くというのは珍しいことではないのだが、彼のようにパスティーシュで書くのは珍しいのではないかな。都筑道夫が「もどき」シリーズで21人の探偵の贋作を書いたと自慢しているが、もしもしナルスジャックさんを忘れていませんか(忘れていません。「前後不覚殺人事件」で引用されています)。このあと、ピエール・ボアローとであい、「ボアロ―&ナルスジャック」でたくさんのミステリーを書いたのはご存じのとおり。有名なのはヒッチコックを嫉妬で狂わさんばかりにさせた、クルーゾー監督「悪魔のような女」の原作だろう。ポケミスの翻訳はあんまりにひどいので、改訳の文庫版で読むように。

「ルパンの発狂」(モーリス・ルブラン) ・・・ ブラジルの富豪オリベイラ氏がホテルで斬殺。部屋にはパリの友人ベルナック青年がいて、隣室にはオリベイラのの執事ビンゲルが椅子に縛り付けられている。狂気のベルナック青年が犯人と目されたが、証言は得られそうにないので、現場で事件を再現することになった。そのあとはルパンの外連な独白に、列車内の格闘を楽しむことになる。例によって二重三重の一人二役がある。足りないのはルパンのロマンス(必ず振られなければならない)がないことだが、代わりに優れた文体模写(翻訳も大正期の日本文学風な文体に大量のルビ)で楽しませてくれる。

「雄牛殺人事件」(S・S・ヴァン・ダイン) ・・・ ニューヨークの埃及(エジプト:こちらの古い書き方のほうがよい)学者が自宅とコレクションを売りに出した。自宅はピラミッドの内部を模したもの。成金が購入し、どうやら宝物が隠されているらしい。そのお披露目の会の翌朝、密室で成金が撲殺される。珍しい指輪も盗まれ、監視にあたった警官は異様な怪物を見てやはり頭を殴られた。「カナリア殺人事件」と「スカラベ殺人事件」のアマルガム。ヴァンスのディレッタンティズムもヴァン(語り手)のトリビアリズムもよく模写している。ああ、この話は笠井潔「オイディプス症候群」にそっくり。

「エルナニの短剣」(ピエール・ボアロー) ・・・ 落ち目の田舎劇団がラシーヌの悲劇を上演。ひどいでき。幕間に主演男優を訪れた旧友に、男優はこの劇団の主演女優と旦那とコキュの三角関係を話す。その直後、三人がナイフでのどを切られていた。それぞれの控室は二階にあり、出入りは男優の控室から見えるのだが、だれもとおっていない。フランス人による劇場舞台ミステリという趣向を楽しむ、のだけど三角関係が主題になるのはフランス風。

「赤い風船の秘密」(エラリー・クイーン) ・・・ ブローカーが、バイオリン弾きが、踊り子が相次いで殺される。奇妙なことに死体のあった部屋には赤い風船が残されていた。そして富豪の家で赤い風船がみつかる。クイーン警視らは彼の警護を買って出るが、断られる。ようやくヴェリー警部一人を残すことを承諾した。その夜、怪漢が侵入しヴェリーを負傷させ、自らは死んだ。殺された人たちは1933年に財産を失っていて、殺された怪漢も1933年のギャング事件で処罰されたひとり。さてこの連続殺人事件はだれが犯人でしょう、とご丁寧に「読者への挑戦」まで挿入される。クイーンにしてはミッシングリンクのこだわりが乏しいとはいえ、健闘した小品。

「メグレほとんど最後の事件」(ジョルジュ・シムノン) ・・・ 定年退職を1か月後に控え、風邪を引いたメグレはたたき起こされる。男爵の家で当主のぐうたら息子が殺され、その妻が行方不明になっていた。妻が犯人であると告発したのはぐうたら息子の母。この息子には小児麻痺で下半身まひの青年がいる。奇妙なのは失踪した妻の寝室で、のどが弱いから窓を開けないといい、香水の瓶が割られている。メグレものを読んだのは四半世紀も前なのでどのくらいのできのパスティーシュなのかわからない。風邪をひいて体調最悪なまま捜査をするメグレが角田喜久雄「奇蹟のボレロ」の加賀美警部に似ているのが面白かった。もちろん模倣関係は逆。

「赤い蘭」(レックス・スタウト) ・・・ この世に存在しない赤い蘭を育成することに成功したから見に来てくれとウルフに依頼が来る。どうにかこうにかでむくと蘭は盗難され、その翌日、蘭の育種家は毒殺された。毎朝の日課にしているラジオ体操の最中が犯行時間とされた。たぶんスタウトが書くと、こう簡単にウルフを連れ出すことはできない(昔なじみか、彼の所属するグルメ会の依頼でないと外出しない)けど、雰囲気はいいです。それに、ちゃんとグッドウィンは「僕」、ウルフは「わし」としゃべる。ここは重要なので、これからパスティーシュを書く人は覚えておくように(そんな新人作家いないよな)。

「花束も冠もなく」(ジェイムズ・ハドリイ・チェイス) ・・・ 17才の童貞で孤児のアンディはドラッグストアの店主を殺し、金を奪う。そこに来た女はギャングの情婦。ギャングに入ったアンディは人殺しを重ねる。パスティーシュの上手下手は置いておくとして、この即物的な暴力と死を描くチェイスがなぜ第2次大戦後のアメリカとフランスで流行ったのか。笠井潔「哲学者の密室」の議論を慣用すれば、まあ戦争の無意味な死をだれもが見聞きしていた。なので、1)戦場の無意味な死を忘却するか昇華するために、日常の死を特権化すること(その反映として生に意味があるとみなせる)、2)街を戦場という非日常で祝祭的な場に変えること(それによって生が高揚する)、の代替物として機能したのだろう。


 ここに収録されたのは21編中の7編。未訳のなかには、ドイル、チェスタトン、クリスティ、セイヤーズあたりが入っている。結局ポケミスでは訳出されなかったが、有志による翻訳があるみたい。下記サイトで一部を読むことができる。
http://longuemare.gozaru.jp/hon/narcejac/nar_cont.html

 あとナルスジャックパスティーシュの対象にしたのが、現役の、しかもバリバリの売れっ子(死語)であることに注意。今でいうと・・・知識がないからやめておくけど、パスティーシュにするほどの個性をもったタレントが1920-1940年代にはごろごろしていた、ということが重要。しかもアメリカ、イギリス、フランス、日本、その他の地域で同時多発的に起きたことも。不可解な世界を構築して、それを一瞬にして破壊し、別の世界に変貌するという物語になぜかくも多くの人が囚われ、夢中になったのか。面白い問題だと思うな。