odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

林光「日本オペラの夢」(岩波新書)

 林光の音楽を聴いたことはそれほど多くない。大河ドラマ国盗り物語」テーマ音楽とか、NHK教育TVで放送された「セロ弾きのゴーシュ」上演番組録画とか、2枚のCD(ソングと交響曲)くらい。
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 1931年生まれは岩城宏之外山雄三などが同世代。面白いのは敗戦後の高校生の時から帝国劇場に入り浸り、藤原歌劇団のピアノ弾きとして仕事をしていたこと。そのときには1時間くらいのミニ音楽劇の作曲をしていたというのがおもしろい。その後に、専門的な教育を受けたのだった。国民全員が貧乏で国家のセイフティネットが当てにならないとき、人の生き方というのは無限のバリエーションをもっているのだね(既存企業に就職して、定年まで勤めるというモデルは1960年以降のもの)。

 さて、彼の問題は日本語をどうやって音楽にのせるかということ。西洋言語だと発話がリズムと抑揚をもっているので、「自然」な歌(リートやメロディやオペラなど)を作ることができる。例はシューベルトの「野ばら」。で、自分が似た例を出すとすると、下記のセサミストリートの番組。会話が自然と歌に変わっていく、というか歌うように語る、語るように歌うというのが、英語だとこんなに簡単にできるのだと初めて見た中学生の時に驚いた。
Sesame Street: School Pageant-Flower
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 あと、ラップもそうだね。アメリカ西海岸で「rap」とかいう歌うように語る、語るように歌う新しい音楽があるよと紹介されたのは1988年だったと記憶する。とくに卑猥な4文字言葉を連発するCDを出したので、ミュージシャンとCDショップ店長が逮捕されたという記事をみたことがある。その後のこの国への導入と定着はご存じのとおり。
 とはいえ、ことクラシックに限ると、音と言葉が対等の関係を持って、言葉の意味を完全に伝え、人物の感情を歌で伝えることができ、しかもすばらしい音楽であったというのは、400年のオペラの歴史の中でモンテヴェルディモーツァルトしか実現できなかった(と著者は言いたいようだ)。モーツァルト以前では音楽が弱い。モーツァルトよりあとには音楽が強くなりすぎる、あるいは音楽が(劇や俳優が表現するべきことまで)描きすぎる。フルトヴェングラー「音と言葉」もそんなことをいっていたような気がする。あるいはゲオルギアーデス「音楽と言葉」だったかもしれない。
 言葉が音楽に負けている状態で持って、この国の人たちはオペラを書いたり、オペラを翻訳上演したものだった。なので、何を言っているのかわからない、日本語として不自然などの批判や非難を受けてきたのだった(似た話はロックでもあって、1970年代には「日本語でロックをやることができるか」と議論されていたのだった。サザンオールスターズがでてからこの議論は消えたらしい)。
 ようやく本書に戻る。著者のやりかいことは劇(としての楽しみ)と音楽(としての楽しみ)が一致すること、およびそのような音楽=劇が上演できる場を作ること。本書の後半は、自作を紹介しながらのこの理念の実現への執念を語る。まあ、この国では自前の劇場と劇団を持つことは困難であるし、それが「オペラ」であるとするとなおのこと。ここで登場するのが「こんにゃく座」であった。志は強くも金とコネには困っている音楽=演劇クルイたち。上演資金も乏しく、人数も乏しく、エキストラも雇えないという団体の上演する方法は一風変わっていて、楽器はピアノひとつ。トラック2台に舞台装置に衣装、照明道具その他を詰め込んで、向かうは全国の小中学校体育館。音響最悪、フロアにじかに座っての観劇となる。その苦闘の様子が語られる。では作品はどうかというと、上記のようによくは知らないものだから、控えておくとして、他のこの国の作曲家の声楽作品に比べると図抜けて日本語がよくわかる・聞こえるものであると伝える。

 とくに主要作品の「セロ弾きのゴーシュ」は1時間強の上演時間で、内容はたいてい知っているとなればぜひ触れて欲しい。そのためには映像つきがよい(こんにゃく座がネット販売している)。でも「こんにゃく座」は上記の仕組みで(チャンスが合えば)全国どこにもでかけるようなので、公共団体・教育団体は連絡をとってみてはいかが。
オペラシアターこんにゃく座
 別の映像。
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2014/01/08 大江健三郎/武満徹「オペラをつくる」(岩波新書)