昭和17年刊行(!)の洋楽受容史。この種の歴史を記述した本は少ない(と思う)ので非常に貴重。とりわけ、明治初頭のころはこの本以外で読んだことはない。なので、クラシック音楽愛好家には必携なのだが、ずっと品切れ中。
乱暴にいえば、この国と洋楽のかかわりは、戦国時代にまで遡れる(織田信長に洋楽器が献上されたとか、天正遣欧使節がバチカンのミサを聞いたとか、来日した宣教師がキリシタンに賛美歌を教えたとか)。そこらへんは専門家に任せるとして、通常は幕末から記述を開始すればよいだろう。本書のスタンスはここにある。ペリー来航あたりから洋楽(西洋音楽でおもにクラシック音楽だ)をいかに受け入れてきたか、をいくつかの場合にわけて記述する。上巻では幕末1850年ころから1890年代日清戦争あたりまで。
・非常に乱暴に説明すると、洋楽が入ってきた流れは、1)軍楽、2)初等音楽教育研究、3)来日している欧米人の演奏、くらいにわけられる。最も早いのが、海軍による軍楽隊の編成から。明治3年には20名ほどが選ばれて、洋楽器を手にし、来日しているイギリス軍の兵隊を教師にして練習と演奏が始まっている。のちに陸軍も同じような軍楽隊を編成したとか、専門家養成のために、新規募集をしたとか。最初に志願した中に「軍艦マーチ」作曲の瀬戸口幸吉がいるとか。ここらへんは司馬遼太郎「坂の上の雲」に書かれているので、参考にしておくように。
・で、除隊した軍楽隊の連中を集めて民間の鼓笛隊(吹奏楽団)もできた。明治20年ころから。いたるところから演奏の仕事があって繁盛したらしい。横浜にもできたそうな。面白いのは、演奏水準が高いとか、最新の曲(ヨハン・シュトラウスとかオッフェンバックあたりかな)を演奏するより、派手でリズムを聞かせるほうがよいということになった。たぶんこれが後のチンドン屋に発展していったはずなのだが、上巻では記述なし。
・初等教育については、まず洋楽研究から始めようということになり、白羽の矢が立ったのは、宮中雅楽部。彼らのうち若いものが志願して作曲と演奏を始めたのだった。
・重要なトピックが、国歌の制定。ここには「君が代」の作曲経緯が詳しく書かれている。薩摩の人たちは、酔席で「君が代」に節をつけて唄っていたそうなので、大山巌とか野津鎮雄などの陸軍ないし川村正純などの海軍あたりの薩摩閥から、国家にするなら「君が代」にしようということになったらしい。明治9年ころ海軍軍楽隊教師のフェントンに作曲を依頼。これはどうも勝手が違うということで、明治11年に雅楽界で作曲コンペを行い、林広守の作に決まったとのよし。このあたりは、CD「君が代のすべて」に詳しく、しかもいくつものバリエーションの「君が代」を聞けるので面白い。
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・あとは、日清戦争のころから軍歌が作られ、まだ小学校の唱歌教育も始まり、人が歌うようになっていったというのが面白い。軍歌の歌詞集がベストセラーになったとか。初出の時代のせいか、各種軍歌が作詞、作曲まで詳述されている。また、明治20年代の鹿鳴館文化のころ、華族の姉弟の中には洋楽器演奏のできる人たちが生まれていた。幸田延(露伴の妹)がウェーバー「舞踏への勧誘」を16歳で弾いた記録が残っている。
・以上の上からの動き(文部省や軍隊などによる)は明治10年以降になって本格化していった。これはその背後に西南戦争という政治の内紛があり、教育まで手が回らなかったこと、ご真影などと同じような政治の可視化が必要になったことと期を一にしたうごきなのだろう。まあ、音楽も国民統制の手段に利用し、押し付けていったものであった、ということができる。極端な例が15年戦争末期の絶対音感教育で、空襲する飛行機のエンジン音を聞いて機種を見分けろとか、整備不良の機体を見つけろとか、そんな目的で導入された。成果を上げなかったので、すぐに廃止された(この話の出所も忘れた。中島健蔵「証言・現代音楽の歩み」と思うけど、自信なし)。
・もう一つ重要なのは、邦楽界も詳細に記述されていること。および、当時存命だった人びとのインタビューを行って、その成果を本書に取り入れていること。
2012/08/08 堀内敬三「音楽五十年史 下」(講談社学術文庫)