1903年生まれ、1979年没。戦前の肩書きは東京帝国大学文学部フランス文学講師にでもなるのだろうが、この人は文学者というよりも、人を集める組織者、運動の理事や幹事を引き受けるオルガナイザー、政治・文学・芸術などの評論家と見ることがおおい。もうひとつの側面は、自分を語ることによってある情況を説明するということか。この「昭和時代」はその最初の一冊。音楽を対象にすると、「証言・現代音楽の歩み」講談社文庫になる。このふたつを読み比べると、意識的に登場人物を変えていることに気づく。こちらには諸井三郎・今日出美らはでてこないし、「証言」には林達夫・三木清は出てこない、という具合。
さて、「昭和時代」が書かれたのは1957年。著者は自分を昭和の時代の目撃者とみなす。昭和天皇(1901年生)に年齢が近いというのもあるし、大学卒業が昭和の初めで、大学講師から軍の徴用でシンガポールに行くとか政治や時代を意識することが必須であったから。東京郊外に起居を構え、仕事は市内であったために、関東大震災に226事件、東京大空襲などを体験したのも大きい。自分を自由主義者と規定はするものの、とくに誰かの思想に依拠しているわけではないので、彼は戦前の時代に翻弄される。そのときの無力感とか放心とかいらだたしさとか自分の感情を思い起こしながらも、批判の先はおもには「官僚」と軍と政治家の交じり合った<システム>と、大衆になる。その批判のねじれ具合はようやく今になると、重要で先進性を認めることができるけど、たぶん出版当時には評価は低かったに違いない、と妄想する。
さて、彼が思い出すことどもをいくつかまとめよう。
・関東大震災で家の被害はなかったものの(駒沢村に住まいがあった)、神楽坂の警察署前である男が人々に囲まれているのを目撃。そのときに「鮮人」という怒号とともに鳶口が男に振り下ろされた。いわゆる「不逞鮮人」の虐殺である。それが震災の翌日。さらにその翌日には自警団が家の周囲に作られる。のちには軍人も自警団の誰何にあってあやうく難を逃れた話を聞く。ここでは、大衆の付和雷同とか集団ヒステリーについて語られる。
・この本には昭和の恐慌と長い不況が書かれていない。しかし、その克服の手段としてあったのが、右翼と左翼双方からの「統制」だった。まあレッセフェールの失敗、市場の失敗があって、自由主義経済はダメである、そのためには左右両翼から「統制」が必要という議論と運動が起きていた。いずれも民衆とか大衆には届いてはいなかったし、真に受けるものもいなかったのだが、その種の運動に参加する学生を彼はたくさんみている。
・このような「雰囲気」に乗じたのが<システム>(著者はこんな言葉を使っていないが便利なので採用することにする)。すなわち、共産党検挙、労働組合運動の弾圧でもって左翼をつぶし、右翼による政治家・資本家テロを利用して自由主義的な政治家と資本家を悪者に仕立て上げる。そのような「雰囲気」を醸造しながら、まず思想統制を行う。最初は美濃部博士の「天皇機関説」問題であり、続いて教育勅語の制定、「国体明徴」と「教学刷新」運動で言論の自由を制限する。これら(国体と教学(教育ではないことに注目))に反対するものは排除することが必要とされる。その推移と内容は本書に任せるとして、読者が恐怖に思うのはこれらの<システム>(著者は官僚と軍と政治家をあげる)の首謀者が顔なしであり、責任の所在が明確でないこと。その<システム>は敗戦によって解体されていないということか。とくに官僚組織。さらには、この種の上からの押し付けに対する反対言論が起きなかったということ。すでに自由にものをいう「雰囲気」が左右両翼の運動で失われ、密告と監視の仕組みができていたのだった。
・戦中、文学者の徴用でシンガポールに派遣される。そこで、華僑の虐殺があったことが書かれている。この都市の大規模虐殺事件はあまり知られていないのでは。自分もこの本くらいでしか知らない。
本書は敗戦で終わる。敗戦から70年を経過しているとなると、それは昔話に思えるが、書かれていることはアクチュアリティのあることだ。不況、経済格差、セイフティネットの崩壊などが現れているとき、簡単な解決として「統制」を求める人がいて、<システム>はそれにいつでも乗じたいからねえ。そこで「自由」を重視するのはなかなか難しいのだよ。著者のいう「自由」は主に思想・信教・言論を対象にするけど、さらには経済における自由もふくまれなければならない、と自分は考える。
著者のほぼ同世代の人の本を読むと、ここに対する忸怩たる思い、行動しなかったことへの反省というのが戦後の言論に反映しているのだな、その屈折はその世代の外にいるとわかりにくい。務体理作「現代のヒューマニズム」(岩波新書)、真下真一「思想の現代的条件」(岩波新書)など。
あと、点描的だが、著名人との交友がかかれる。たくさんでてくるけど、三木清について「政治的人間としては不器用きわまる」P132という評が印象的。あと、シンガポールから帰還後、林達夫に乞われて東方社の仕事に着いたことが書かれる。わずか2ページで、仕事の内容の詳細はない。勤務先には「謀反気のある連中が集まっていたのにひかれた」P180とのこと。多川精一「戦争のグラフィズム」(平凡社ライブラリ)に詳しい。