odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

モルデジャイ・ロシュワルト「レベル・セブン」(サンリオSF文庫)

 1959年作。
 主人公の軍人「ぼく」に突然、召喚命令が下る。命令受領と同時に、地下施設に行けというのだ。身の回りのものはもちだせず、別れの挨拶もできない。関係者には失踪扱いされたということになっている。すなわち、彼は全面核戦争に対処する最終対応施設「レベル・セブン」に配属されたのだ。

 レベル・セブンは地下4400フィート(約4000m)にある軍事施設で、整備・医療・エネルギー・食糧・ミサイル発射管など500人のエリートの独身男性と女性から構成されている。ここには500年分の食糧と水があり、放射能で汚染された地表にでなくても生存可能で、かつ敵対国に打撃を与えられる施設である。
 この種の施設構想はそれほどめずらしいものではない。前の戦争では大本営が長野県松代に地下施設を作らせ、映画「博士の異常な愛情、われわれはいかに(略)」ではドクター・ストレンジラブは廃鉱にエリートを集める構想を語り、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」ではガミラスの遊星爆弾の被害から逃れるために地下都市を建設し、映画「マトリックス」では目覚めた人々は地下都市ザイオンに集まっていたのだ。それに、この種の優れたエリートを集めるというのも、ユートピア小説にはありふれている。カンパネルラ「太陽の都」に、最近の例だと大江健三郎「治療塔」かな。
 面白いのは、この密閉空間をユートピアとみなす「哲学者」が演説するところ。すなわち、ここには完全な平等があり(リーダーや命令を下すものがいない、役割を持たない者はいない)、完全な自由がある。これはルソー的な民主主義の完成形。つけくわえると、ここには労働はないし(生活物資は完全無償で支給される)、貨幣はない。すなわち労働と貨幣が廃棄された共産主義のユートピアだ。
 一方で、この密閉空間は絶滅収容所に似ている。500人を収容するために、個人のスペースは潜水艦乗組員かカプセルホテル並みの狭さ、食・衣服を選択する自由はなく(食事は味のないオートミールみたいなものに錠剤のみ。味をつけると地上への郷愁が強まるからだって)、24時間中何をするか拘束されている(自由時間は1時間くらい)。結婚は自由だがスピーカーの承認が必要で(スピーカーの向こうで指令を出すのがだれか誰も知らない)、たぶん出産は計画されている(ハクスリー「すばらしい新世界」)。しかもここにはリーダーはいないが、全員が全員を知っているので、だれがどういう考えかがわかる。おかしな考えをもつとすぐに心理学者の診断を受ける。重要なのは、スピーカーによる監視があって、個人的な会話に突然介入してくる。まあ、フランケル「夜と霧」とかオーウェル「1984年」とかベンサム/フーコーの「パノプティコン」とかが実現されているわけだ。ユートピアを追求すると、ディストピアに似てくるというパラドックスがここでも現出している。
 後半は、絶滅戦。ボタンを押す指令が下り(命令者の顔が見えないことに注意)、疑問なくおす「ぼく」。全面戦争は2時間半で終了。巨大な世界地図のスクリーンには灰色のしみ(核ミサイルが命中し破壊されたことを示す)が表示されているだけ。このあっけなさと世界の破滅の落差が衝撃的。さらに、当初想定した以上の放射線汚染が起こり、上部にあるレベル1から6までの施設では大量死が起きている。それは敵対国でも同様。したがって、生き残ったのはほんの数千人。このような状況はのちに手塚治虫火の鳥」で描かれた。皮肉なことに、レベル・セブンはエネルギー供給用の地下原子力発電施設の事故で放射能漏れが起き、避難場所のない地下施設では全員が死亡。最後まで生き残った「ぼく」は手記を懸命に書き上げて、死ぬ(ではだれが手記を入手したのか)。
 核戦争とその後の破滅、そして放射線漏れによる被害の拡大は、まだ研究も調査も不十分な時代であったので、それほどリアルではない。たとえば、核爆発ののちに地表で死ぬことを決意した老夫婦が自動車で都市を移動しながらラジオで実況するというシーンがあるのだが、自動車が残っている・ガソリンがたやすく入手できる・破壊された都市がゴミ捨て場のような描写など、この国の爆撃を知っているものには楽観的な描写になっている。それに地下施設の放射線漏れによる人々の死はまるでペストのよう。そうではあっても核による大量死と国家の消滅は衝撃的で悲惨の極みである。
 内容は衝撃的。しかし、同時代のその種の文学(「渚にて」「原爆投下指令」など)と違って、現代に残らなかった。解説によると英国の評論家は「文体」がないせいといったが、自分がみるとストーリーが不足していることが原因。作家が大状況にフォーカスしすぎたために、施設内部の集団劇もなければ、「ぼく」が無関心・観察力不足のニヒリストで結婚や仕事に関する会話も踏み込みがない。要するに、大状況の説明に寄り添いすぎて、小説の面白さがない。そういうわけで、今回の再読では核戦争の恐怖以外のところに目が行くことになった。
 核戦争のシミュレーションは、古いのしか読んでいない。米国技術評価局「米ソ核戦争が起こったら」(岩波現代選書)、M・ロワン・ロビンソン「核の冬」(岩波新書)、あたり。
 あとこの人の経歴に注意。1921年ポーランド生まれのユダヤ人で、13歳にイスラエルに移住し、1957年からミネソタ大学教授に就任。「世界の小さな終末 (ハヤカワ文庫 NV 33)」の翻訳があるとのこと(自分は未読)。サンリオSF文庫版は出回っていないようなので、次善策として以下を紹介。