odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

グレアム・グリーン「情事の終わり」(早川書房) 無神論者の三角関係のライバルは神様。

 新潮文庫の田中西二郎訳ではなくて、早川書房全集版の氷川玲二訳。そのため人物名が変わっていて、Sarahがセアラとなっている。

「私たちの愛が尽きたとき、残ったのはあなただけでした。彼にも私にも、そうでした―。中年の作家ベンドリクスと高級官吏の妻サラァの激しい恋が、始めと終りのある“情事”へと変貌したとき、“あなた”は出現した。“あなた”はいったい何者なのか。そして、二人の運命は…。絶妙の手法と構成を駆使して、不可思議な愛のパラドクスを描き、カトリック信仰の本質に迫る著者の代表作。」
情事の終り - Google ブックス


 物語の外観はシンプル。中年の独身作家モーリス・ベンドリクスは、たまたま知り合った高級官吏(国内保安省でhome securtyの担当だって)のヘンリに家に行き、美しい妻セアラと不倫の関係にある。ときは1939年の大戦争のはじまった時期。ヘンリは仕事で忙しく、片足の不自由なモーリスは時間の空きがある。というわけで、モーリスとセアラは頻繁に街であった。食事をし、映画を見て、ホテルにいって性交する。そういう関係は数年続いたが、1944年にばったり止まる。ホテルに同宿しているとき、ドイツの空襲にあい、モーリスがドアとがれきに埋まるという事件が起きてからだった。1946年にヘンリと再開し、セアラと出会ってから再び不倫が再会する。今度は長く続かない。セアラは体調を崩し、モーリスと会うことを拒否する。モーリスは探偵を雇って(ヘンリの依頼によるのだ)、セアラを監視する。最後に深夜の雨の中、で会った数日後セアラは急逝した。
 これだけの話であれば、まあ普通のロマンスと愛する人がいなくなったことへの喪失感の物語。奇妙なのは、モーリスとセアラの感情にあるのかな。まずモーリスはセアラと会うたびにセアラを傷つけるような言動を吐き、自分の意思に逆らえないようにする。こういう支配型の愛というのもあるので、まあ不思議ではないにしろ、セアラと会えないとき、彼はセアラを愛し同時に憎んでいる。こういう両極の感情の同居というのが理解しがたいこと。
 もっと不思議なのはセアラであって、官僚ヘンリの平凡で鈍感な感情と生活にすっかり飽きている。モーリスとの逢瀬による彼女の生を充実させる重要な時間とくらべると、ヘンリの家にいることがたえられない。ついには離縁状を書いて家を出て行こうとする晩、ヘンリになきつかれて(「お前なしにはいられない!」)その瞬間に離縁することをあきらめる。しかし、モーリスへの愛も冷めることがない。ここらへんの感情。さらに、ドイツ軍の爆撃をうけてがれきに埋まったモーリスを見たとき、彼女は信じていない神に祈る。この人を助けてくれたら、私はあなたを愛する、と。もしかしたらこの時セアラはモーリスが死んだと思っていたのか。モーリスが助かってから、セアラの中には「神への愛」が生まれる。これは単純な信仰の目覚めではなくて、それこそモーリスと同等の人格を持つ者へのエロティックな愛のようなのだ(自分の読み取りは間違っている可能性もある)。ここにおいてセアラはヘンリとモーリスの三角関係から、モーリスと神と自分の三角関係に転移することになる。この三角関係もまた理解不能。超越的な存在への愛と、実在する人格への愛は別の回路にある、というか切り分け可能であるように思えるのだが。
 探偵の盗み出したセアラの日記をモーリスは読み、セアラに影響される。すなわちほぼ無神論者のモーリスも三角関係の相手として神を意識しなければならなくなるのだ。でも彼は信仰に関しては懐疑的。セアラの葬儀に訪れたカソリック神父にも辛辣な皮肉を投げかける。それも代償行為でしかなく、モーリスは神を憎み、神を意識しなければならない。この神は嫉妬する神なのかなあ。すくなくとも沈黙するシモーヌ・ヴェイユの神とは違うし、福音書に書かれた神でもないみたい。
 モーリスは探偵を雇ってセアラの秘密を探る。もちろんセアラが別の男を持っているのではないかという「事件」を解決するためだ。しかしこの探偵パーキスは無能。尾行も聞き取りもだめ、証拠の発見能力もないし、推理力もなく、報告書の書き方もなっていない(この饒舌で無内容な報告書を読むと笑える)。つまり、探偵小説で「神」の立場にいるはずの探偵が、まったくこけにされているのだ。ようするに理性をもっていても、利害関係に無援な立場にいても、人間はこと神との関係に関しては解決能力=認識力はないのだと暗に言っている。
 さて、本書解説によるとイギリスのカソリックは上流階級と下層階級の一部にしか信者はいない。作者を含む中流階級にはほとんど信者がいない(イギリス国教会があるから)。その中で著者グリーンはカソリックの信者である。社会のマイノリティであるという意識がこういう原理的な思考になるのかしら。そのこともやっぱりよくわからない。
 あと第3部はセアラの日記の抜粋。ここでの一人称の文体にも注意。だれかに読まれることを予想していない自己吐露の文章で、この文体は神に対する告白文になっているのだ。あるいは自分の感情を揺るがし、運命を翻弄する神に対する告発文でもある。なんにしろ、「神」という存在なしにものごとを考えるのはできないし、完全独白もできないというのも、やっぱりよくわからない。