第2次大戦直前のポーランド(と明示されているわけではないが)。ワルシャワから田舎に疎開させられた6歳の少年ははぐれてしまい、村に寄宿することになる。彼の黒い髪と黒い瞳は、藁色の髪と青い瞳の村人にはユダヤとジプシーに見られてしまう。方言を理解できない少年は、村人による信じがたい虐待を受けながら、遍歴を重ねる。10歳になったときに、村の教会の司祭助手を務めるときに、あまりの迫害の苦痛によりミサの最中に聖書をとり落とす。彼は村人によって肥溜に投げ込まれ、そのときから声を失う。そのころにはロシアが迫る・・・
主人公の「ぼく」に対する迫害や虐待もさることながら、村人や軍人たちの暴力も理解しがたいほどの残虐性を持っている。いったい何人がこの小説のなかで殺されたり、凌辱されたりしたのか。そして、その死や悲惨を誰も共感しないということ。戦争行為によって人間の暴力が引き起こされたのではなく、日常生活にそれは具体化しているということに恐ろしさが生じる。多くは、共同体の内と外の懸隔。そして敵意と自己保守。ホッブスあたりの性悪説による人間の自然状態をみるようだ。
ここに描かれる残虐行為の多くがドスト氏の「カラマーゾフの兄弟」でイワンが告発する残虐行為に一致していることに注意。主人公が6歳から10歳までであるだけに余計にイワンの告発に共通する。
および、子ども自身の残虐性、差別にも注意すること。この少年は村の子供たちからも迫害を受けていたのだった。
で、これは作者の空想なのではないかと疑いもしたのだが、レナ・ジルベルマン「百人のいとし子」筑摩書房を読むと、ほぼ同様の差別、迫害、無視が現実に行われていたのだった。ナチス占領下のポーランドは国そのものが「収容所」と化していて、だれもが精神的な「囚人」であったのだなと慄然とする。似た状況は「満州」「朝鮮」にもあったのではないかと疑うのだが。
これに「セラフィタ」なんかをもってくると、バルザックの神秘主義なんかたんなるきれいごとにみえてしまうなあ*1。セラフィタはこの残虐行為に対して何をいうのだろうか(この小説には司祭がよく出てくるが、かれらは主人公「ぼく」を擁護することはほとんどない)。
もうひとつ。主人公は、心と肉体を分けるすべをもっているようで、「痛い」「悲しい」「辛い」などの感情表現がない。そのかわりに「殴られる」「蹴られる」「鞭うたれる」「犬をけしかけられる」などの描写のみ。おかげで、悲惨なはずの物語がなぜかファンタジックっでシュールリアリスティックなものになる。これは肉体嫌悪のためかしら。物語の最後は、吹雪のなかでの声の回復だからなあ。内面=声が、身体に優越しているのだ。このありかたも「おそろしい」。
子供を主人公にした戦争の物語には、イタロ・カルヴィーノの「くもの巣の小道」、大江健三郎の「飼育」があったな。国や人による差異を検証してもおもしろいかも。
*1:同時に読んでいたための八つ当たりです。