無声映画を上演する時、日本では弁士という特別の形態があった。どうやら西洋ではオーケストラあるいは小型楽隊が場面に合わせて演奏しているのを聴いていた。それはあたかもバレエを見ているようなものだ。ところが日本では小さな楽隊に合わせて、弁士が場面の説明ときにはセリフの吹き替えを行っていた。それは講談か浪花節を映像付でみるようなものであっただろう。一時期は多いにもてはやされた弁士という職業も、1930年代初めにトーキーがでて、さらには字幕スーパーがつくころには、一気に廃れてしまった。ときに弁士の連中が映画館あたりにストライキを行ったこともあるらしい。とはいえ時代の趨勢に抗うことは難しく、弁士の大半は廃業を余儀なくされ、別の世界に生活の糧をえなければならなくなった。
徳川夢声は弁士のスターでもあったが、軽妙な話法を漫談に転化することができ、トーキー映画とほぼ同時に勃興しつつあったラジオの世界で生きることが可能になった。戦後も放送文化人として長い活躍をした人だった。
これは著者が記していた日記から戦争前後のころのものを抜粋したもの。当時には、映画の弁士から漫談家に転進して成功していたころで、当時40代後半の年齢でも徴用されることもなく、各地の慰問やラジオ出演で暮らしていた。徴兵されない芸人は少なかったのか、方々に出かけているのが記録されている。
この人、稀代のグルメであっておいしいものには目がない人だった。にもかかわらず、肥料の不足による農産物の生産減少、漁船の徴発と燃料不足により漁獲高激減、海外からの輸入は途絶え、軍隊に優先されるために民間の流通は減少、国内輸送もままならずと、おいしいものを腹いっぱい食べることの難しい時代だった。戦争のためというよりはロジスティック無視の政策に原因がある。まあそんな時代で、多くの人は腹をすかせていたのだが、同時に娯楽や笑いも不足していて、夢声氏がくるとどこも歓待し、大事に保管していた秘蔵の食料を供与されていたのだった。それを語るときの彼のうれしそうなこと。統計や数字には表れない庶民のしたたかさをみることができる。
(堀田義衛「スペインの沈黙」所収のインタビューによると、同時期の上海は物資がたくさんあったそうな。八路軍もこの町を攻撃する気はなく、ここに集積される物資を敵軍同士がほしがったので、特務機関のすることは敵地に乗り込んでの交渉だったそうな。まるで商社のような仕事をしていたとのこと。同じ町にいた武田泰淳「風媒花」でも飢餓や物資の不足で悩む様子は描かれない。)
また彼の娘だったか妹だったか、親族の世話をすることもたくさんあり、そういう事務手続きの得意ではなさそうな夢声氏がおたおたしながら役場を歩き回るというのが面白い。非常時ではあっても、あるいはだからこそ日常の煩瑣さというか凡庸さが際立つのだろう。
この時代の日記というと、永井荷風「断腸亭日乗」、山田風太郎「戦中派不戦日記」がある。全社は老人の、後者は学生のものなので、より職業者に近い人の日記として夢声氏のそれは珍重される。ああ、中島敦「南洋通信」も戦中の日記だな。仕事の記録は多川精一「戦争のグラフィズム」(平凡社ライブラリ)、子供の記録は岡野薫子「太平洋戦争下の学校生活」(平凡社ライブラリ)。