odd_hatchの読書ノート

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多木浩二「天皇の肖像」(岩波新書)

 以下は不正確なまとめになるだろう。
 ストーリーは大政奉還江戸城の開城から始まる。幕府は潰れた、ではどうするか。新政府に力がないのは明白。しかも人民(そんな階級の人はいなかったが)も信用していない。そこで、早急に新政府の「中心」を作らなければならない。それは幕府をどけただけのものではなく、「(国民)国家」としての求心力をもったものでなければならない。それまで「国民(日本人)」はなかったから、ネーションを創造しなければならないのだ。それは畏敬の対象であり、権力の象徴であるべきだ。これが明治の最初のころの政治問題であったはず。この「革命」を達成したとき、おおよその国家イメージを寡頭政治の推進者たちはもっていたはずだ、しかし、西郷とその一派はさらに進んだ国家をイメージしていて(それは民主国家ではなくて、単純な哲人国家でありかつ侵略国家でもあった)、行き過ぎようとしていた。それを西南戦争で滅ぼすことによって、「革命」の時代は終わる。これはフランス革命のロペスピエール殺害であり、ロシア革命トロツキー暗殺の繰り返しだ。
 とまあ、そういうところで、「天皇」が権力の中心として政治化される。
 本書によると、明治20年ころまでは、行幸という方法が使われた。天皇を見せること、政治的な祝祭のうちに中心を明示すること。こんなところが目的。当時新聞はなく、マスメディアの役割を担っていた錦絵には天皇の姿が描かれる。彼を描くことは禁忌にはなっていなかったわけだ。そのあと(たぶん憲法の発布1889と教育勅語1890や軍人勅諭1882と同じころ)に、御真影の下付という方法になる。天皇を見せないこと(写真ではあっても日常は見えない、見せない。見せる姿はネーション=ステートの象徴となる管理されたものだけ)、下と上からの管理の仕組みによって日常の隅々に制度を行き渡らせることが目的になる。ポイントは、1)上からの押し付けではなく下からの要望に対する下付という形式を持たせたこと→上からの責任の押し付け、下からの権威への服従、2)こういう上下の関係を御真影を中心に、生活に持たせたこと、3)この仕組みから漏れる人を差別、排除する仕組みを作ったこと(たとえば移民や賤民と言われる人々たちは御真影の下付の対象外)。こういう命令や法によらない上と下の関係が国内の隅々に浸透し、それぞれの関係において責任を取らない制度ができた。それが天皇制なんだ、という議論。
 実家には、昭和13年ころ(平成天皇が乳児として映っている)の天皇一家の写真があった。御真影からもう一歩進んだ下付の仕組みがあったのだろうか。面白いのは、若い昭和天皇夫婦を中心にして、一家の顔写真が載っていること。戦後は天皇一家がマイホームの象徴のように描かれたのだが、その先取りになるのかしら。
 「天皇の肖像」と「徴兵制」を読むと、この二つの政策はコインの裏表であるということがよくわかる。これは「民族国家」を上から作るための暴力的な装置として働いた。それからもともとは象徴や手段であったこれらの政策が、第2、第3の世代まで続いたときに、目的(手段の維持=利権の維持)に変質したことも重要。さらには、とりわけ明治の時代には、国家に抗する運動が強くあったということ(そのなかには徴兵忌避のための祈願などもある)も重要。

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 「天皇制」の重要ポイントは、(1)下からの上伸、それに対する上の許可(しばしば暗黙の)というところ。下が暴走した場合でも、上は「下が勝手にやったこと」と無責任になれること。(2)上と下の関係が、階層になっていてこと。下には、その下があって、その場合、「下」であるもののその下に対しては「上」としてふるまうことができる。(3)複数の下が上に対して、同一の行動を「自然」に起こしていくこと(上の期待を下が忖度し、そこに競争を持ち込んでいるから、行動が同一なものになっていき、それが「伝統」とか「理念」になっていく。