odd_hatchの読書ノート

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矢吹邦彦「炎の陽明学 山田方谷伝」(明徳出版社)

 山田方谷備中松山藩(現岡山県高梁市)の人。江戸末の百姓生まれであったが、幼少のころより聡明であったので、朱子学に勤しむ。長じては大阪の塾に留学し、陽明学大塩平八郎吉田松陰などが有名)を学ぶ。折から、藩財政が悪化していたことに加え、藩主板倉勝浄が老中に取り立てられるなどして、藩建て直しを命じられる。10万両に及ぶ借金を5年で返済し、翌年には同額の財をなすに至らしめた。山田の財政建て直しは単純な倹約質素を押し付けることではなく(本人はそのような暮らしを行ったけど)、同時に、新規事業開拓(鉄の生産と鉄製品の販売)、新規販路開拓(藩自らが商社的な機能を持つ)、業務改革(不正のある部門を廃止、藩内に本部機能を集約)、従業員保護と労働への意識付け(藩内の農民に対し新規開拓した農田からは徴税しない、一方で飢饉時には藩の貯蓄米:藩の資産にあたるを供出)を行っている。西欧では資本主義の勃興時であり、国内は農本主義が精一杯の時代で現代を先取りする施策を実施しているこが素晴らしい。しかも彼は中国の古典を読むことだけで、これらの施策を発案したのだった。
 幕末の同様の財政建て直しに実績を上げた人に、上杉庸山がいるが彼もまた10万両を返済しているが、それには山田の4倍の時間をかけている。また、山田の実務中には天保の飢饉が全国的に起こったが、山田在任中には一人の餓死者を藩から出さなかった。この藩の周囲の農民は、山田の在世中、その藩に生まれなかったことを嘆いたそうである。彼の弟子には、越後長岡藩を建て直した河合継之介がいる。司馬遼太郎「峠」の前半に山田と河合の出会いが書かれていた。
 このような実務家が世に知られていないのはひとえに、藩が幕府側にあったことによる。また山田は明治政府から幾たびも呼ばれたが、ついに国政に参加することがなかった。山田は維新の立役者となった人たちの一回り上の年齢であり、年下の志士のような功名心はなかったし、また主に忠義を誓う儒学の人であった。
 維新を、ことに経営的な立場から見れば、幕府から新政府に政権が移ったとき、ほとんどすべての藩の財政が悪化し、不良債権を持っていた事実であり、数年を経ずして発布した廃刀令等により大量の失業者(武士)がいたということだった。また前政権により開国が決定しており、新政権はそれを追認したが、そのとき国内の既存産業はほとんど国際競争力がなく、新規事業を立ち上げようにも資金も技術もないという状態であったということだ。
 このような事態は、国家規模でも起こるし、会社などの小さな組織・共同体でも起こるものだ。われわれが同様の困難を解決しなければならないとき、あるいは困難に遭遇し自分の進退を決しなければならないときの参考になる。
 山田の方法は、市場および生産の市場化、開放化ということであった。その方策が成功したのは当時の日本あるいは藩が資本主義化していなかったという点にある。そのときにいち早く資本主義化することによって、時間の差による利益を山田は得ることができた。しかし、現在において資本主義が先鋭化している状況において、安易に市場開放したからといって成功するとは限らない(多くの経営者は安易な多角化をするという方向で読み取り、失敗するに違いない)。むしろ評価するのは旧来のシステムを変更したことだろう。仕組みを変えることには非常な抵抗を生むことになる。抵抗勢力(変化を嫌う人たち)との闘争で通常は消耗してしまうものだが、そこでの山田の生き方、来し方にこそ注意する必要があるだろう。