odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ハンス・ケルゼン「デモクラシーの本質と価値 」(岩波文庫) 1930年代、デモクラシーを僭称するボルシェヴィズムとファシズムを批判する。

 作者の経歴とこの本の出版年を知ることは重要。プラハ生まれでウィーン大学で教授を務める。ナチス政権誕生と同時にスイスに亡命。この本は1932年に出版。

 自分が読むのに困難を覚えたのは、どうやらカント哲学を基礎としているらしいこと(当為とか自由律とかそんな用語が頻出)と、国家の存在が前提であること(その起源とか根拠とかは問われないようだ)あたりにある。さらにはルソーとヘーゲルを結婚させようという試みをしていることも。二人の思想を統合するときの無理とかきしみがいろいろと聞こえてきて、耳障り。なので、以下のまとめは自分なりの超訳がかなり入っている。
序言 ・・・ 19世紀以来デモクラシーは基本的な政治原理とされてきたが、最近(くどいけど1930年代初頭)になって僭称するものが生まれている。ボルシェヴィズムファシズム。そこでデモクラシーを再度確認しよう。
自由 ・・・ 理念的には人間は平等、というルールから出発すると、自由には1)支配・束縛から離脱する自由(そのかわり社会からの保護は放棄しろ)、2)参加する自由のふたつがある。で、参加する自由を選択したとき、自己の選択権とか所有権とか一部は放棄して国家とか共同体に委譲することになる。そのときに自由は束縛・制限されるが、少なくとも選挙の自由は残るのであり、それを通じた多数決ルールでもって自分の主張を社会や制度に反映できる、しなければならない、という議論。論敵がボルシェヴィズムにファシズムの少数による決定に全員参加というルールだから、対抗提案はこの程度になるのかなあ。
国民 ・・・ 著者はドイツをベースに考えるからどうしてもドイツの歴史と現実に拘束されるなあ。彼の考えでは国民があるから国家があるとするようだけど、自分には国家があるから「国民」概念が生まれると思う。そういう齟齬があるんだ。あと、著者は職能身分制に基づく政党がそれぞれの階層の利害を代表するというのだが、これはドイツの職業訓練とか職能とかのこの国から見ると特殊な状況を反映していると思う(たとえばパン屋になるには数年の徒弟修業を経て資格をもたないと開業できないというような。この国にはそういう制度のある職業は限られている)。
議会 ・・・ あらゆる国民が自分の職能身分に対応する政党を持っているという前提で、民主国家は普通選挙と国会の多数決原理で国民の参加する自由は確保されるという議論。ここに巧妙に挟み込まれているのは、そのような手続きで選択・召集された国会は国民の一般意思を体現しているから、国民とは独立の意思と決定権をもっているのだって。
議会主義の改革 ・・・ とはいえ国民が社会に参加する自由が議員を選ぶ選挙のみでは不十分であり、ときには国民投票による直接選挙が必要。あと、議会を堕落させる原因として、1)議員の免責特権があること、2)罷免権が政党にだけあること、そのため議員は選挙人に対して無責任である、とのこと。ここは議論が不十分なきがしてとりあえずウェーバー「職業としての政治」もあわせ読んでおかないと。
職能身分制代表 ・・・ 政党が国民の利害を反映できないなら、職能身分制代表でもって議会を編成しようという主張。すなわち職業や企業の組合の代表が議会をつくるというフランス革命前後かボルシェヴィキの方法だ。著者はこれだと利益相反する弱小身分の利益が保証されないし、圧倒的多数の身分(暗にプロレタリアートと示唆)の利害で独裁になるよ、という。ボルシェヴィキの方法に対する牽制球。
多数決原理 ・・・ 個人独裁や階級支配による少数排除がないようにするには、多数決原理が必要。以下、自分に都合のよい強調をすると、多数決原理で少数意見が通らないことを納得させるためには、意思の疎通が必須で前提になり、言語的・文化的(ないし政治的)な同一性のある集団でなければならない。となると、他民族の混交する場所だと、国家より小さい単位の地域の自治を認めるほかない、とのこと。民族問題に対するレーニンスターリン的解決は無効であると暗にいっているのかも。返す刀でファシズムの独裁も批判。
行政 ・・・ 議会が立法した命令・法律を執行するときに、別組織である行政が必要。その運営の効率化を果たすときには官僚制が必要で、それはデモクラシーと対立するルール(独裁制)で運営される。また、国家中央組織と地方自治組織でもヒエラルキーが発生し、デモクラシーの原理と相容れない。ここには指摘だけあって、答えなし。
指導者の選択 ・・・ 社会や国家の指導者をどのように選択するかは重要な難問。とりあえず選挙による指導者たちを選出する方法がよいのは、指導者の行為が公開され、批判され、集団で討議され、場合によっては交替することができること。もうひとつは被指導者から指導者を選択することが可能であること。個人や集団による独裁や君主制ではこれは不可能。なお、この選挙による指導者の選出は、つねに教育が必要(とはいえ教育における教師と生徒の関係は民主的ではないので注意すること)。
形式的デモクラシーと社会的デモクラシー ・・・ ボルシェヴィキの社会的デモクラシー批判。彼らは平等価値を重視し、正義イデオロギーを振りかざす。しかし、彼らの運営は民主主義的方法を抑圧し、政党による独裁制。デモクラシーが重視するのは自由価値である。
民主政治と世界観 ・・・ デモクラシーは、理想や理念ではなく、運用のルール。したがって民主主義の方法から国家の形態や形式が必然的に決まるのではない。不具合や不都合にあったら、ルールにのっとって変更してかまわない。デモクラシーは、政治的相対主義。少数の承認、保護は必須。


 書かれた当時の<敵>であったファシズムとボルシェヴィズムが消失したので、とりあえずこの国ではこの本の記述は古いものになった。となると、この先にかかれることは、いくつもある民主主義の方法の比較であるだろう(アメリカと西洋と北欧とアジア、中南米など)。そこからこの国にあう方法を見出すこと。それを教育に反映すること。次には、運用と成果がしっかりなされているかを監視、チェック、批判、改善提案する方法を民主主義のなかに入れていくこと。情報公開、オンブズマン、その他の仕組みがあったとしても不十分であるから。さらには、エンデが提案したように<国家>が必要以上の仕事や権能を持ちすぎてアップアップしているとか、国家という形式では少数の権利を保護できない事例があるとかからスタートして、国家のサイズと権限を変更することも必要かもしれない。その先にあるのは、他でもいうようにカントの<世界共和国>かもしれない。
 とはいえ、EUというような<世界共和国>空間が社会全体を覆い尽くしているというのも、窮屈な感じがする。ギリシャアイスランドをみていると。ガミラスの攻撃をかろうじて撃退した地球は世界連邦を作るのだが、戦士としての古代たちは違和感をもっている(「さらば宇宙戦艦ヤマト」)。自分の戦功を認められない空虚感もあるだろうけど、俺の感情に即するならば、世界が<連邦>で管理されて民主的でなくなった、社会の有様に耐えられなくなっても逃げ場所のない窮屈さに鬱屈しているのではないか、と。だから、軍の命令を無視してヤマトを発進する=世界連邦から離脱する(浪人になる)ことがあんなに楽しそうに自由に見えたのだったで、そのような自由人=浪人を迎え入れる空間は宇宙にしかない、と。おかしな傍証をだしたけど、国家が消滅した後に世界的な<共和国>や<連邦>が抑圧的になる可能性も考慮する必要がありそうだ、と書いておく。